未払い金・軍事郵便貯金とは?
 
 

「戦死通知すら来ない!」 李侖哉さん

 原告の李侖哉(イ・ユンジェ)さんの父・李花燮(イ・ファソブ)さんは、原告が母の胎内にいるとき徴用され、終戦時は生死不明だった。後に厚生省に調査依頼した結果、1944年11月1日に中国の東沙東島南沖で死亡したことが判明。第103海軍施設部に所属、軍属として1941年から1944年まで4年間勤務。勤務時の給料・積立金等が5828円が東京法務局に委託されていることもわかった。父の貯えた金は、当時の国・軍によって半強制的に預金させられたもので、当然遺族が受け取る権利がある。しかし日本政府は、こうした金(供託金)を、本人にも家族にも返せないという。

 李さんと同じように、強制連行され給料等未払いのまま法務局に供託されている朝鮮人は数は33万人、金額にして5000万円(現在に換算すると2900億円、1991年朝日新聞)が宙に浮いたままの状態である。なぜ、当然支払われるべき金が、本人・遺族に支払われないのか?

 朝鮮人に対する戦後補償は、1952年のサンフランシスコ平和条約では、特別取り決めの対象として留保され、南の大韓民国に対しては、1965年の日韓条約で交渉「成立」した。条約とセットの日韓請求権協定で、日本は韓国に無償3億ドル、有償2億ドルに支払うことで合意し、同協定第を2条1項で「両締結国は、その国民の財産権利及び利益並びに請求権に関しては、完全かつ最終的に解決された。・・」とした。日本政府は、さらに、韓国人の請求権を消滅させるためだけの国内法、「法律144号」(1965年12月)をわざわざつくり、「韓国人の日本国、日本人に対して持っている債権は消滅」とダメ押しした。このため支払う必要がないというのが今の政府の立場である。しかし、日韓請求権協定で合意した中身は「外交保護権の相互に放棄した」ことにすぎず、「個人の請求権を消滅させたものではない」(1991.8.27柳井条約局長=政府見解)。そこで国内法144号(1965年)で、外国人の請求権(=財産権)を消し去ったのである。これは憲法29条の財産権の不可侵にも違反している。

 こうして韓国に対しての補償交渉を成立させた。しかし、北の朝鮮民主主義人民共和国との間には、完全な未解決の「宿題」だ。国交正常化交渉の中でのこの問題の扱われ方が注目される所以である。

そもそも「供託金」という、ごまかし・・・

 補償をめぐってのごまかしに「供託金」問題がある。強制連行や徴兵で連れてきた朝鮮人に対して、支払われる賃金を「一度に大金を渡すと逃げるおそれがある。」等の口実を設け、半強制的に給料や、退職金積立金、厚生年金保険金等を天引きで預金させた。退職・退役時に渡されるはずのこれらのお金を、戦後「受け取り人が探せない」として、国が一方的に法務局に供託したのが「供託金」である。

 日本は敗戦直後、在日朝鮮人連盟等が強制連行された朝鮮人への未払い金要求運動が広がるのをおそれて、主に民間企業への追及をかわすため、1946年日本政府が「未払い金は、地方法務局に供託局を設け、預けよ」とし、供託させた。1950年には、国によって徴兵・徴用された軍人・軍属にも適用された。韓国・朝鮮から徴用した軍人・軍属の未払い賃金は、東京法務局に預けられているのだ。

 一般的に「供託金」は、民法上10年で時効になり、国庫に没収される。当時の政府の事務処理があまりにもずさんだったため、法務省も「時効を保留」とはしているが、いまだに支払い請求に応じる姿勢はみられない。

 供託は、「○○さんの未払い金○○円は、預かっている」「受け取り方法は○○だ」と、個々人に供託通知をしなければならないが、ほとんどの人に対して「居所不明」「通信不能」を理由として通知をしていない。しかし当時名簿は存在したし、1947年時点で一般の手紙等は通信可能だったのである。このことは、意図的に連絡を怠り、時効により「供託金」の消滅を画策したわけで、批判されるのは当然である。

 日本政府は、「日韓条約で補償は解決済み」と要求に背を向けている。日韓条約締結時、韓国側に、国としての請求権の消滅を受け入れさせた口実は、被害のデーターがないからということだった。(椎名外相)しかし、当時「供託簿」は法務省に存在し、「厚生年金保険脱退手当金」の名簿は各地の社会保険事務所に、「軍事郵便貯金」残高は郵政事業庁内に管理されていることが確認されている。(1999.神戸新聞)

 日本人の元軍人軍属及び遺族に対する補償は、総額は40兆円といわれている。本気で日本政府が過去に眼を向け、戦争を謝罪し、今後のアジアの人々と隣人としてつきあっていく気があるなら、ただちに原告の未払い金支払い要求に応じるべきだ。

GUNGUN原告の陳述書

8872円の供託金も、遺骨も返して!

原告 チョン・ビョンソン(鄭炳鮮)さん

 私は、1960年8月1日、全羅南道谷城郡キョム面サンドク里187番地で4男4女の5番目として生れました。徴用者は私の祖父であり、父は1985年に死亡したため、祖父に関して祖母、父、母、曾祖父母から聞いた話と当時の記録内容をもとに陳述したいと思います。

 祖父が徴用に行った当時、曾祖父母、祖父母と父は一緒に住み農業をし、生活は困難を極めていました。祖父は5人兄弟で、1941年3月はじめ、5人兄弟のうち誰か1人が徴用に行かなければならなくなり、5番目の弟(当時23才)の代わりに長兄(当時40才)であった私の祖父が行くことになりました。

 祖父が徴用に行った後、2回ほど給料を送金してきましだが、祖父の代わりに曾祖父母と一緒に住んでいた4番目の弟に土地でも買って暮らしなさいと、手紙と給料を送ってきたそうです。その後祖父からは何の音沙汰もありませんでした。当時、祖父が実質的な家長でした。苦しい生活の中で家長がいなくなって、祖父の4番目の弟が、祖父の代わりに老父母の面倒を見ました。
 
 祖父が徴用に行った後、曾祖父が中風にかかって3年間の闘病生活の後、1945年に亡くなりました。祖母は幼い子供たちを、夫もなくひとりで育てなければなりませんでした。解放後も祖父の消息を知るため、生きて帰ってきた人たちを尋ね歩いて、祖父の死亡を確認しようとした祖母は、心痛の日々を送り遺骨も取り戻せないまま、40余年間辛い日々を送らなければなりませんでした。
 
 解放後も祖父は帰らず、徴用から生きて帰って来た同郷の方が、祖父の消息を教えてくれました。その方の話によると、祖父とは体憩時間とか集会の時などに話をしたことがあるが、徴用で来られた方の中でも有織者だったそうです。1945年5月12日、祖父の所属していた小隊が爆撃を受け、祖父は死亡したということです。

 1970年代に、対日民間請求権協議会の助力で、遺族達に支給される補償金30万ウォンを貰いました。当時、面で遺族達に補慣金が出るという話を聞き、同じ時期に徴用に行った方に祖父の死亡を確認してもらって申請しました。祖父の記録を探すために政府文書記録保存所を尋ね、被徴用死亡者連名簿の中に祖父の名前を見つけ確認しました。祖父は海軍軍属として勤務し、昭和19年5月10日戦死したという記録が残っていました。

 もう少し正確な記録を知りたくて目本の厚生省に調査を要請しました。祖父は海軍軍属として1945年6月26日ミレ島で戦死し、8872円が供託されているそうです。被徴用死亡者連名簿と厚生省の調査結果との死亡日時が違いますが、生存者の証言からすると被徴用死亡者連名簿が間違っていたと思われます。厚生省に発行してもらった死亡日時が正確なようです。今まで遺骨も受け取っておらず、遺骨の確認を依頼したところ、1948年5月31日に韓国に送還したということです。しかし、政府から遺骨が来たので引き取りに来なさいという連絡を家族が受けた覚えはありません。遺骨がどこに行ったのか、遺骨に対する正確な行方を探ししていただき、一日も早く政府が積極的に協力してくださって、(祖父の遺骨を)墓地に埋葬して供養できるようにお願いします。
過去の過ちを反省することなく、日本政府は被害者に何の補償もせず今日まで来ました。一家の家長が突然強制的に徴用されて遠い異国の地で死に、残された家族は父と夫を失って苦しい日々を送らなければなりませんでした。祖父の犠牲と家族が味わった苦痛の日々に対して、韓日両国政府からの正当な補償がなされることを希望します。

「8月15日以降の戦死だから」と韓国政府からの補償もない。未払い金も、遺骨も返してほしい。

原告 イ・ナクジン(李洛鎭)さん

 
   

 父は、1944年の春に徴兵されました。その時には江原道平昌郡平昌面中里61に住んでいました。徴兵されたときの家族構成は、曾祖母、祖父母、父(長男)、母、私を含む子ども3人、父の弟1人、妹2人の11人家族でした。

 父は徴兵される前は、国民学校の先生をしていました。徴用後は、「関東軍の伍長」と聞いていましたが、その後フイリピンに移ったようで、「暑いところで勤務している」「スコールがある」という内容の手紙が2通届いたことがあります。

 1945年9月20日に、フィリピン・ミンダナオ島のランカシャンで戦死しています。父親の生死は、1972年時点で戦死が確認されていました。しかし韓国の1975年の補償法適用を受けることはできず、補償はされませんでした。その理由は、戦死時期が1945年9月20日で8月15日以降であったためとされています。

 1999年12月に厚生省から正式に戦死の確認書が届くまで戸籍の整理はしていませんでした。それまで戦死通知はなく、遺骨も当然のことながら戻っていません。