権水清さんの陳述書より

陳述者氏名     権水清(クォン・スチョン)
被徴用者氏名    権云善
被徴用区分     陸軍軍属
陳述者との関係   父

陳述内容

 私は、1938年7月26日、慶尚北道尚州郡尚州面道南里539番地で生まれました。父・母・姉・弟・そして私が一緒に暮らしていました。父は、慶尚北道ソンサンの消防署で消防官の仕事をしていたため、家族はしばらくそこで暮らしていましたが、生活は苦しかったです。
 父が徴兵された経過は、当時私がまだ幼かったので、よくわかりません。徴兵されて1年で解放を迎えたので、1944年に徴兵されたのだと思います。慶尚北道ソンサン郡に同じ村から父と一緒に徴兵された人がいると聞いて伺い、父についての話しを聞きました。部隊別に配置するため整列させていた時、父の立っていた列は洞窟の中に配置され、その洞窟に行く途中に爆弾が落ちて死亡したと聞かされました。
 父から手紙は来ていましたが、給料が送金されていたかどうかは、母が早く亡くなったのでわかりません。
 解放になっても父は帰って来ず、1年くらいソンサン郡で父を待ちながら暮らしました。父は戻らず、母も病気になって、残った家族は母の実家の所へ行きました。おじさんが母の面倒を見ようと努力してくれましたが、結局母は貧しい中で、一度もちゃんと薬を飲むことなく、危篤に陥りました。危篤になると「家で死にたい」と言って、また尚州に引っ越しました。尚州に引っ越してすぐに、母は亡くなりました。私は幼かったので、正確な病名はわかりませんでしたが、周辺の大人たちは母は火病(怒りのために起こる病気)で亡くなったと言いました。
 父は帰って来ず、母まで亡くなると、9歳になった私は祖父の弟の家に行って暮らし、弟は祖母の家に行くなど、離れ離れの生活をしていました。私は、祖父の弟の家で1年程度暮らして、その家から出て、一人で旅を重ねました。親に面倒をみてもらいながら学校に行くべき年でしたが、日本という国は父だけでなく後世までに苦痛を与えました。祖母が亡くなると、弟はおじさんと一緒に暮らすことになって、私が客地で金を儲けて生活費を補ってあげました。弟はまた祖父の弟の家に行って暮らして、私はその後、その家から出て、客地で生活するようになりました。ウルサンやプサンを渡り歩き、1970年にソウルに来て定着するようになりました。
 幼い頃から手に余る苦労をし、職を探し定着できずに客地を渡り歩いてきたので、ちゃんと勉強もできず、ただ食べて生きることで精一杯でした。その間も父が帰ってきそうで、今日帰るか、明日帰るかと思い、死亡申告もしないままでしたが、知らないうちに父は死亡になっていました。除籍謄本には、父が1948年に死亡して、私が1967年に死亡申告したと記録されていました。今でも父を待っている心に変わりないのに、誰がこんな申告をしたのかあきれるばかりです。
 1970年代に韓国政府から補償金が出るという話しがありましたが、ソンサンにいる叔父さんが知らせてくれてわかりました。当時私は生活が苦しかったし、申請手続きがよくわからなくて、申請できず、その後調べた結果、請求期限が切れたと言われました。
 1996年に、父についての死亡記録を知るために、日本の厚生省に調査要請をしたところ、身分が陸軍軍属だということだけがわかるのみで、死亡記録はないとのことでした。名簿にも生死不明と記録されていました。父の消息を考えると心が重苦しいです。
 一つの家庭の家長を強制的に連行していって、死んだか生きているのかもわからないまま父を待っている途中に母まで亡くなって、幼い子ども達は孤児になって苦痛な生活を強いられました。現在まで生死確認さえできず、残った家族の被害はあまりに大きいけれども、今まで何の補償の恩恵も受けられませんでした。個人で生死確認と、遺骨を探すのには限界があります。韓日両国政府は、生死確認と遺骨探しを積極的に行なうべきです。一日も早く正当な補償がなされ、遺族の怨みが少しでも解けるよう、努力をお願いします。

2000年9月29日