2015年10月2日〜3日

強制連行被害者納骨堂の移設先・望郷の丘での慰霊祭、
春川・ソウルでの遺族との交流に参加して(古川)


 グングン裁判の発起人であった金景錫(キム・ギョンソク)さん(日本鋼管訴訟の和解を勝ち取った故人)がかつて春川(チュンチョン)に建立した「強制連行被害者納骨堂」が天安の望郷の丘に移設されて4年。裁判提訴の2001年から10年間、「日本人としての良心を態度で示そう」と年1回、草刈りボランティアを行ってきた。今回、10月2日に望郷の丘で行われた慰霊祭に4年ぶりに参加した。
 望郷の丘に眠る全てを対象にした合同慰霊祭が200人で営まれた後、小高い丘の上にある春川からの移設を記録する石碑へ移動。春川から貸し切りバスで参加した太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会の20人、ソウルの太平洋戦争被害者補償推進協議会の15人、私たち日本からの参加者4人ほか総勢40人による慰霊祭が営まれた。提訴の頃から春川でお会いする懐かしい方々とも再会を喜び合った。
 石碑の前に祭壇を設け、春川から持ってきた果物やお供えを並べ、横断幕や花輪が立てられる。いつもながら遺族会にとって慰霊祭の意味の大きさを感じる。洪英淑(ホン・ヨンスク)会長、春川市、私の挨拶の後、全員がそれぞれの宗教で祈りを捧げた。終了後お弁当を囲む。韓省愚(ハン・ソンウ)副会長が亡くなったお兄さんのことを話してくれる。「兄は徴兵でフィリピンで亡くなったが、出て行く前の晩、私の頭をなでながら寝かしつけてくれたのが忘れられない」と語る。その後全員で記念撮影。 
 
金景錫さんのお墓参り
 
 
  金景錫さんのお墓参り
 この日は一旦ソウルへ戻り、翌日春川へ。かつては2時間かかっていた列車が今は電化が完成し、1時間で着く。南春川駅に洪会長と韓副会長が出迎えてくれる。小型バスに乗り込むと、不二越訴訟原告の崔福年(チェ・ポクニョン)さんの顔も。洪会長のお姉さん、妹さんが途中で同乗し、郊外にある金景錫さんのお墓へ向かった。こちらも納骨堂と同じ時期に移設されたが、私はほぼ毎年お墓参りしている。それぞれが祈りを捧げる。日本酒を献酒すると、崔ハルモニが大粒の涙を流して泣き崩れる。12歳で動員され、不二越で労働中に右手の人差し指を失った崔さん。金景錫さんとの闘いで名誉回復が実現したのだと推察する。お墓参り後、記念撮影し、タッカルビ屋さんで食事。韓副会長のお兄さんは、フィリピン、ミンダナオ島で亡くなっている。遺骨の箱は受取ったが、中身は見ていない。今でも発掘される遺骸とのDNA鑑定の道筋が見えてきたことを話すと「ぜひ参加したい」とのこと。兄の詳細な記録を調査するために、現在持っている資料を送ってもらうことになった。遺族にとって父や兄が「どこで、どうして死んだのか」そして死後の遺骨がどうなったのか知りたいのは当然である。それを戦後「外国人だから」と現在まで放置し続けている日本政府の責任は重い。

 
  遺族交流会
ソウル遺族交流会で記録調査の報告

 天安・望郷の丘での慰霊祭の後、私たちはソウルへ戻り、太平洋戦争被害者補償推進協議会の事務所で遺族との交流会を開いた。慰霊祭の会場から三々五々かけつけた遺族は約10人。どの人も父や兄が戦前や戦時中に日本に動員され、その後の詳細がわからない人ばかりである。手分けしてこの間日本で調査してきたことを説明したり、初めての人からは調査してほしい内容の聞き取りを行った。
 私は、グングン裁判提訴の頃からの顔なじみである朴進夫(パク・ジンブ)さんと、昨年7月のノーハプサ口頭弁論で来日した朴南順(パク・ナムスン)さんへの説明を行った。

お母さんは日本人の朴進夫さん
 
 
  朴進夫さん
 朴進夫さんは北海道平取町生まれである。お父さんの朴先鳳さんは戦前韓国から北海道の鉱山に出てきて、そこで日本人のお母さんと結ばれ、進夫さんが生まれた。1944年6月にフクサマ?炭鉱に連れて行かれ、その1か月後に爆発事故に遭って火傷負傷。直後に母が病院を訪れ、その1か月後に死亡したと、生前母から聞いている。静内警察署から遺骨を取りに来るように言われたとの情報もある。戦後は父の「韓国へ帰れ」の指示通り、お母さんは進夫さんら子どもを連れて韓国の父の実家に身を寄せた。一家の大黒柱を失った家族が戦後を生き抜くことが過酷だったのは、進夫も例外ではない。自分の子育てが終わってはじめて父のことを知りたいと思い、推進協議会の活動に参加した。「母からもっと話しを聞いておけばよかった」と悔しがる進夫さん。
 この間の調査結果として、(1)記憶にある「フクサマ」が函館の西にかつてあった「福島炭鉱」の可能性があること、(2)福島鉱山はマンガン鉱として東邦電化梶i現在の新日本電工梶jが所有し、襟裳岬手前の様似までの輸送ルートがあったこと、(3)様似までの途中に、「平取」「静内」があること、(4)様似町、平取に当時の「火葬許可」資料が残っていないかを調べる予定であること、などを説明した。韓国側からは「フクサマ」が平取の隣町、穂別「福山」にあった八田炭鉱の可能性があることの指摘を受け、さらに調査していくことになった。
 
 
  朴南順さん
 朴南順さんのお父さんは日本海軍に徴用された。推進協議会が韓国の国家記録院から取り寄せた海軍身上調査表から1944年2月24日にブラウン島で亡くなっていることがわかった。そしてその横に「靖国神社合祀済み」のゴム印を確認した。家族に詳細を知らせず、靖国へは通知した不条理を裁判で問うている。南順さんの要請に応えて、厚労省にその詳細を問い合わせたところ、「戦史叢書」の写しを交えて回答があった。「海上機動第1旅団」施設部は、44年1月にブラウン島(環礁)の「エンチャビ島」、「メリレン島」「エニウェトク」の3島に配属。朝鮮人はそのうち「エンチャビ島」、「メリレン島」の二つのどちらかに配属され、朝鮮人228名と日本人73名が飛行場と防備施設の作業に従事した。2月19日に米軍は「エンチャビ島」を占領した。「メリレン島」は米軍の攻撃を受け、25日に占領、日本軍は玉砕した。南順さんのお父さんの戦死日に符号する。「メリレン島」での総人員1347名のうち捕虜として生き残ったのは25名だけ。死体埋葬数は1027名と記録されている。また、79年に一度だけ遺骨収拾を行っており、その際8柱が帰還していること。遺留品の記録はないこと。国としてマーシャル諸島の「マジュロ島」に慰霊碑があること。戦後、米軍が埋葬していることから、埋葬地の詳細がアメリカの公文書館に残っているかも知れないことなど、調査でわかったことを太平洋の地図を前に説明した。
 孤島での埋葬は、DNA鑑定を通じて個人特定の可能性が極めて高い。南順さんはノー!ハプサ訴訟の口頭弁論で「わが家には家族墓地があります。ところが父の遺骨も探せていないし、今は靖国神社に合祀されているというので、父の墓地は空のままです。私は私が生きている間に、どんなことをしても父の遺骨を探し出し祀りたいと思います。」と陳述している。

 
  李煕子さん
 ここで韓国人にとって、遺骨とはどういう意味を持つのかについて、李煕子(イ・ヒジャ)さんに尋ねると「親や先祖のために、兄弟が何人いても、長男が責任をもって風習、お祀りであるチェサをする。それは韓国の文化で昔から変わっていない。遺骨は亡くなった人の身体の一部と考えられ、家族にとって大切なもの。特に強制動員された場合、全体でなく骨の一片だけでも探し出して、家族墓地(先山:ソンサン)の親元に祀ることが大切。自分が死ぬ前に骨片一つでも探し出して親元の墓の隣に埋葬することが、子としての道理。靖国問題で日本の裁判所は韓国人に「寛容」を求めるが、それは許せない。」と答えた。亡くなった家族をどう弔うかはその国の文化なのである。その文化を勝手に踏みにじり、横柄に扱ってきた日本の姿勢が問われている。