2013年6月22日〜23日

日韓遺族による連携アクション・新たな行動へー九州・久留米証言集会報告(古川)


「遺骨を家族の元に返さないといけない。靖国に行くのではない」(塩川さん)

 6月22日(土)九州・久留米市において、「戦後補償と靖国問題」解決済みは通用しない・韓国からの証言集会を開催しました。呼びかけはNPO法人「戦没者追悼と平和の会」、GUNGUNが主催し、韓国から李煕子(イ・ヒジャ)さんと崔洛(チェ・ナックン)さんを招きました。2010年証言集会で来阪した崔洛さんのお父さんの記録探しを継続し、唯一残された写真に写る同僚が福岡県の貝島炭鉱で働いていたことが判明し、今回の証言集会に。今回もう一つの目的は、NPO法人「戦没者追悼と平和の会」理事長の塩川正隆さんとの交流です。GUNGUNニュース前号でお知らせしたとおり、4月末にスタッフが訪れ交流させていただいた結果、今回李煕子さんたちとの交流が実現しました。

「将来遺骸が出てきても故郷に帰ることができるようにするための行動を」

 集会前日、会場のホテルで対面し挨拶を交わすと、いきなりロビーで遺骨問題についての意見交流が始まった。自民党による「遺骨収容に関する新法」の動きを報じる新聞記事を前に李煕子さんから「こういう法律の動きに対し、我々は何が必要か」と問うと、塩川さんは「遺骨を遺族の元に返すということが大切。それを盛り込んで民主党政権下で私たちが作った法案を自民党案は骨抜きにする可能性が高い」「将来遺骸が出てきても故郷に帰ることができる方法がある」と応えた。今回の交流を象徴するやりとりだった。
 そして塩川さんは、「戦没者は韓国人もそうだが、靖国に行きたい人ばかりではない。ほとんどの戦死者は家族の元に返りたいはずだ。靖国が勝手に神様にしているが、あなたのお父さんもそう。家族の元に返れるようにする法律でないといけない」と続けた。

 翌日の証言集会は早朝からの開催であるにも関わらず、前日朝日新聞が集会を大きく報じたこともあり、約40人が参加して行なわれた。博多からかけつけてくれたチャンゴグループ「ビビムタ」による活気あるサムルノリ演奏で開会。
 呼びかけ人として塩川さんは、「戦後ずっと遺骨、遺留品の収拾活動をやってきた。父を沖縄戦で亡くして貧しい生活をしてきた。朝鮮半島で大黒柱をなくして、どうやって生活を送ったのか、聞いてびっくりした。認識不足を実感した。日本の裁判所は国家間で解決済みと言っている。東南アジアを回ると「日本政府」への批判を言われるのはよいが、「日本人」と言われると辛い。諸悪の根源は「靖国」にある。加害者と被害者が同居している。」と挨拶した。
 続いて韓国からお二人の証言。いつもながら整理された立派な証言資料を韓国から持参していただき頭が下がる。李煕子さんと崔洛さんがその資料に沿って証言した。資料の力が通訳力不足を補ってくれた。

塩川さんと名刺交換 チャンゴで開会 挨拶する塩川さん
朝早くから多くの参加 証言する李煕子さん

調査報告する角南さん

崔洛さんのお父さんの記録を探して

 続けてこの間、崔洛さんのお父さんの記録を探して奔走してきた共同通信記者の角南さんが報告。「崔洛さんの父の消息を調査するために、唯一の資料である写真と崔洛さんの記憶にある灰皿を頼りにこの間調査してきた。韓国の真相究明委員会の資料に、写真に一緒に写っている高山と言う人と金川という人の記録があった。この写真が貝島だったらよいがと思って調べた。宮若市に石炭記念館があり、名簿があればわかるのではないかと思い調べると資料整理がされておらず、調べたという九州大学の先生に聞くと、そんな名簿はなかったという。明日記念館でお願いする予定。炭鉱の社史に「1942年6月10日に150人が着山、協和訓練所に入所」という記述がある。寮がどこにあったのか、建物はどうかと調べるために、作家の林えいだいさんに見せて聞くと、九州の炭鉱ではないという。壁の板が厚く、窓が二重になっている。北の方ではないかとのこと。しかし北海道で9月ならばランニングシャツでは寒い。横川輝雄さんに写真を見せると貝島近くの高齢者に見せて聞いてくれた。貝島の建物はもっと立派だったとのこと。今後なんとか名簿を調べてお父さんの足跡にたどりつきたい」と発言。
 その後上田さんから、NPO法人太平洋戦史館の岩淵さんに案内していただき昨年パプアニューギニアで行なった戦地追悼や、今年2月の東部ニューギニアでの遺体発見の模様が報告された。

「遺骨は家族の元へ。靖国神社へは行かない」

 集会最後に塩川さんは、「今私は68歳だが、30台の頃父の消息を知りたいと現在の活動を始めた。今日は父の命日。沖縄戦の末、摩文仁で行方不明になった。神社は平和を希求すべきなのに靖国神社だけは別世界。父を戦争で亡くした遺族は身震いすると思う。人間魚雷を展示して、靖国は神聖な場所だと言う。うちのNPOの若い人が先日靖国を見学してきたが、驚いて帰ってきた。戦争を反省せず正当化している。皆さんの税金が都道府県の護国神社経由で靖国神社に流れている。そういうことを情報公開させないとなかなか裁判に勝てない。遺骨収容の法律については民主党時代に私の案が論議され、内閣総務委員会で決定された。遺骨は家族の元へ、靖国神社へは行かない。という思いをこめた。本当に靖国に行っていると思っている人はそんなにいない。私の法案は戦没者の遺骨を家族に帰すこと。焼くまでは遺体だ。日弁連も指摘しているが、身元がわからない人は千鳥が淵墓苑に入れられるがそこは墓地ではない。埋葬ではなく仮安置だというが、仮安置を67年続けているような違法状態が続いている。新法で骨抜きにされないようにしないといけない」と締め括った。

塩川さんの事務所で交流

 集会後、塩川さんとゆっくり交流するために事務所を訪れた。西鉄久留米駅から吉野ケ里遺跡の方向へ向かって車で10分の距離である。
 事務所で塩川さんに父が沖縄で行方不明のままの権水清(クォン・スチョン)さんがいると言うと、「うちの父も行方不明だ。国頭に集結せよと言う指令が6月20日の夜に出た。残った人は助かり、動いた人は死んでいる。遺族には石を渡して死亡を認めろ、認めないなら年金は払えないと言った」と。そして事務所の奥に何かを取りに行き、帰ってきた塩川さんの手には「沖縄方面 霊石」という小さな箱が。「小学校のときに開けて母に怒られた。こんな小さな石ころを入れて霊石と呼んで遺族を納得させた。権水清さんに今度お会いしてどうしてほしいか聞きたい」と沖縄戦遺族の連携を希望された。
 「遺族の思いとしては、とにかく遺骨だと思う」という李煕子さんに、「そうであればまず死亡を認めさせることが先決。韓国人も同じ扱いをさせるのは我々の仕事」「戦没者の気持ちは「遺族の元に帰りたい」だ。と今後の方針が具体化されていった。

塩川さんの事務所で 小さな紙の箱「霊石」

崔洛さんのお父さんの足跡を感じるために貝島炭鉱跡へ

 翌23日、福岡県宮若市の貝島炭鉱跡にある石炭記念館を訪ねた。現地では角南さんと市民研究者の横川輝雄さんが崔洛さん、李煕子さんを出迎えてくれた。
 一通り館内を見学したあと、教室跡で横川さんから話しを伺った。崔洛さんの手元にある唯一の資料であるお父さんの写真には「協和訓練隊員昭和17(1942)年9月13日記念撮影」と書かれている。横川さんは「啓心寮の建物を協和訓練所に変えた。協和と言うのは共に生産を上げようという意味。聞こえはよいが朝鮮人を日本人化するのが目的だった。社史に「1942年6月第1回の朝鮮人労務者150名が江原道から貝島大之浦第5鉱に着山、協和訓練所に入所する」という記述がある」と言うと、崔洛さんが「5から6月に日本に渡ったと聞いている」と。「時期的にはぴったりだ」と横川さん。「ただ、ここで働いたことのある人に見てもらったら「壁の板が厚すぎる」「窓や屋根が粗末過ぎる」「瓦が使えない寒いところではないか」という意見だった。時期はぴったり合うがこの建物は貝島ではないのではという。この近くの寒いところ、山の中、水力発電所の建設現場という可能性もある。灰皿の西本組は広島の大田川の上流で発電所を造っている。そこに行ったとも考えられる。あとは名簿がないか明日あたってみましょう」と今後の調査を展望した。

石炭資料館の前で 落盤事故の絵 教室で横川さん(右端)の説明を聞く
慰霊碑で酒を供える崔洛さん 貝島炭鉱は今は池の下に 崔洛さんと横川さん

日韓遺族の連携行動で新たなアクションへ

 翌日は、名簿の情報公開を求める行動が取り組まれ、2010証言集会で来阪した姜宗豪(カン・ジョンホ)さんのお父さんの情報がみつかるなど大前進がありました。(記事別掲) 
 そしてその後、韓国遺族と塩川さんとの連携行動に向けて、具体化が進んでいます。まず6月24日にソウルで行なわれる「日韓過去清算市民運動報告大会」に塩川さんが招請され、講演を行い、韓国遺族との交流が予定されています。その後、今後の行動の具体化に向けて議論を行う予定です。
 遺族の要求である「遺骨返還」に向けた新たなアクションへのご支援、集会への参加等をよろしくお願いします。