2012年11月2日〜4日

さらなる韓日遺族の共同行動に向けて交流 岩手訪問報告 (古川)


 11月2日から韓国チームと一緒に岩手を訪問した。目的は、8月に行なった「帰れなかった家族のために・韓日合同パプア巡礼民間外交使節団」でお世話になったNPO法人太平洋戦史館代表理事の岩渕宣輝さんに、韓国側として直接お礼の意思を伝えることと、今後の韓日遺族の絆を強める具体的な方針を議論するためである。

 

荒浜小学校

 

 仙台空港に韓国から太平洋戦争被害者補償推進協議会の李煕子(イ・ヒジャさん)共同代表、金敏普iキム・ミンチョル)執行委員長、そして今回パプアニューギニアへ訪問し兄の祭祀を現地で行なった南英珠(ナムヨンジュ)さんが到着。関西からの私と上田、そして東京に留学中の東北歴史財団の南相九(ナム・サング)さんが出迎えた。

 まず空港内に展示されている津波被害時の写真パネルを見学。思えば昨年3月下旬にこの空港から出発して岩淵さんを訪問する予定だったが、直前に起こった震災で中止せざるを得なかった。当時の被害をテレビで見た同じ空港から岩手へ向かった。途中、空港近くの海岸線を走った。道路の鉄柵はへし折れている。周辺の家屋の1階はガラスがなく、ブルーシートやベニヤ板で囲われている。荒浜小学校へ行くと、たまたま来ていた先生が当時の状況を説明してくれた。校舎は1階が完全に破壊され、2階も腰の高さまで浸水したという。生徒は3階以上に避難したため全員が無事だったが、家族が亡くなった生徒も多いそうだ。「アイゴー」、想像以上の惨状に李煕子さんたちは圧倒されていた。

 被災地を後に、一路岩手に向かう。そして日暮れが迫った頃、太平洋戦史館に到着した。車が敷地に入ると向こうから岩淵さんが「ようこそ」と大きく手を広げて迎えてくれた。一通りの挨拶とおみやげの進呈、そしてお連れ合い(太平洋戦史館事務局長)が作った自家製のホットりんごジュースで乾杯した。

太平洋戦史館 りんごジュースで乾杯 おみやげの贈呈

  開口一番に岩渕さんは南英珠さんに「精神的な変化はありましたか?」と尋ねた。南英珠さんは「なぜこんなところまで行ったのかと考えると心が痛んだが、行ってよかった。また行きたい」。李煕子さんからは「本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。支援する会の募金も含め、協力してくれた人に感謝の気持ちでいっぱいだ」と感謝の言葉が続いた。南さんは「韓国に帰って遺族の集まりで報告しているが、皆にうらやましがられている」と、帰国後の変化を報告した。岩淵さんは「来年は1944年に亡くなった人にとっては七十回忌になる。韓国のお坊さんもニューギニアや戦地へ行ってお参りするのも意義があると思う」と。翌日は次の取り組みに向けた話し合いを行うことを決め、この日はホテルへ向かった。ホテルで南英珠さんは、今回のパプア訪問を「兄が歩いたであろう土を自分も踏めたことが一番よかった」と、亡くなった場所での祭祀の意義を熱く語った。

 翌日は朝から太平洋戦史館の展示を岩淵さんの解説つきで見学した。多くの写真や新聞記事と、ニューギニアから持ち帰った遺品の数々。そして各地の戦闘状況をまとめたファイルなどが所狭しと展示されている。岩淵さんは「第一次世界大戦時の英連邦の墓地が横浜にあって、6つの宗教で弔っている。大事なのは個別に埋葬されていること。日本では集団で一つのお墓にしている。それが千鳥が淵墓苑だが、当初は墓と表示されていなかった。『メモリアルガーデン』。理由は自民党が外国要人を靖国に案内する際に、墓が近くに あっては邪魔だったから。今はきちんと『ナショナルセメタリー』になっている」と遺骨調査活動の原点に触れた。個別埋葬して個人の尊厳を大切にする国と、名簿を「神様」と称する一方で遺骸を戦地に放置し続け、ようやく収集した遺骨も一箇所にまとめてしまった国の違い。後者には「個人の尊厳の尊重」などかけらもないということだ。さらに「今、領土問題で揺れているが、戦争をすると遺族が生まれる。今日のような遺族同士の遺族外交で情報共有と共感を伝えていきたい。私が子どものときに助けてくれたのが林(イム)さんという在日の方。今、その恩返しをしているのだと思う」と、日韓遺族の連携の意義を語った。「私は何をやって恩返しすればよいでしょう」と問う南英珠さんに「私たちは年齢的に社会の一番上にいることになるわけで、また戦争にならないような方向へ導く責任があるから、その努力をしましょう」と応えた。

展示物を見学 個人別の墓

 そして今後の方針について話し合われた。岩淵さんから「一人でもニューギニアへ行きたいという人を核に広げていけばよい。今回韓国大使館にもよくしてもらったし、今後に続ける種はまけたはず」と展望を語った。「韓国で岩淵さんを囲む集会を来年5月にやろうと思うがどうか」との問いには、「問題ない。この取り組みはずっと続く。これは人権問題。李煕子さんのお父さんが亡くなった中国も40万人以上が亡くなっているが、遺骨が戻っていないので、探さないといけないと思っている」と語った。「展示の遺品を見て、遺族が個人で資料館をここまで作ったということに尊敬の念を持つ。新しい活動をやってみたいという気持ちがわいた。家族の目線で何ができるか考えていきたい。以前から岩淵さんの話を伺っていたのに、もう少し早くここに着たらよかった」と言う李煕子さんに、岩淵さんは「遅きに失したということはない。今日がスタート」と激励した。

 昼食休憩後、岩淵さんが「韓国の人も一緒に行こう。一歩前に出よう」と切り出した。「韓国へ行って遺族と交流することも、特に領土問題が起こっているこうした時期だからこそ意味がある」と、日韓遺族の新たな共同行動に向けての始動をみんなで確認した。

今後の方針を討議 ニューギニアの地図を広げて

 翌日、帰国の日は朝早く旅館を出発し、津波で大きな被害を受けた南三陸町を目指した。町の山手にある仮設住宅や店舗を過ぎると平野部へ。そこには破壊された鉄骨がむき出しの建物以外何もない。かつて家屋があったであろう基礎が残っているだけだった。被災地に一軒だけ仮設店舗が開いていた。店長の女性はカウンターに並べた写真を見せながら「店の裏に自宅があったが流された。目の前のアパートも流された。住宅は建築制限があって建てられないが、仮設店舗は建てられるので細々と経営している」と私たちに説明してくれた。昼食用のおにぎりやお菓子をいっぱい買った後、3階まで鉄骨だけになった南三陸町防災庁舎を訪れた。そこは多くの人が訪れる祈りの場になっていた。「家族が引き裂かれたであろうと思うと胸が痛む」と李煕子さんは語った。韓国人にとって日本は「恨み・怒り」の対象だった。しかしグングン裁判をはじめ多くの 戦後補償を求める闘いを通じて、痛みを共有する対象に変化していることを実感した。南英珠さんも「嫌いだった日本人が好きになった」と言う。日韓市民の絆をさらに強くして、遺族の望む遺骨調査、戦地追悼が行えるよう、日韓政府への働きかけを強めたい。

南三陸町の被害 コンビニの人に説明を聞く