2012年8月25日〜9月1日

帰れなかった家族のために 韓日合同パプア巡礼民間外交使節団


(報告:上田慶司)
 
 8月25日から9月2日にかけての「帰れなかった家族のために・韓日合同パプア巡礼民間外交使節団」5名は無事帰ってきました。今はとにかく、私達の想像を超える困難な旅を一致団結して乗り越え、無事ミッション(使命)をやりきってきたということを報告させていただきます。まだ、成果も課題も整理できておらず、日記風の報告になりますが、お許しください。とにかく岩淵さん(NPO太平洋戦史館代表理事)の絶大なるご協力で、何もわからなかった私達が、韓国の遺族が望む遺骨調査・戦地追悼へ一歩を踏み出せたことは確かです。

 
 

パプアへ入る前の腹ごしらえ

 8月25日(土)、成田に集合した関西メンバー2人(私上田と木村さん)、韓国から南さん高さんの2人、岩手から岩淵さん(NPO太平洋戦史館代表理事)計5人は、夜9時頃発の飛行機に乗りパプアニューギニア(以降PNGと記します)への旅に出発した。飛行機は経由地オーストラリアのケアンズへ向かった。
 8月26日(日)朝6時前、ケアンズに到着。オーストラリアは冬なのだがケアンズは北に位置し、暖かいのでこの時期は暖を求めて国内の観光客も多いそうだ。日差しが強く景色がくっきりして見える。時間もあり韓国の2人はコアラを抱いての記念撮影。戦争帰還兵の会館にも訪問。昼は昼食が安く、夜はパブのようになり賑わっている。案内の運転手さんは「アメリカはオーストラリアを戦争にいつも一緒に連れ出そうとするから嫌いだ」と言っていた。
 「日本軍はニューギニアの北東部に主力があり、ココダ街道を山越えし、ニューギニアの南側ポートモレスビーを占領した後、オーストラリアを占領する作戦をたてて南進しようとした。それにココダ街道で対抗した主力がオーストラリア軍だ。だから、この国の人達と戦った」そんな説明をしていると、南さんは、「日本は欲が深すぎる」と私に言ってきた。全くそのとおりである。

ようやくパプアへ入国、しかし足止め
 
 8月27日(月)いよいよPNGへ。飛行機は1時間25分でPNGの首都ポートモレスビーに到着した。そこから国内線で北側のウエワクに行く予定。入国手続き、国内線の乗り継ぎ手続きが手間取り、結局ウエワク行きの国内線に乗り遅れてしまった。PNGはその中央に2000mから4000mの高い山脈が連なり、南側から北側に行くのは道路では行けず、飛行機しかない。しかも1日1便だ。「乗り継ぎ場所で全員が乗れるように案内をしていなかったのは航空会社の責任だ」と、岩淵さんが航空会社と2時間近く交渉を行った。大阪の吹田で3年間留学したという日本語の上手な社員が現れ、私達は、雑談などをしていたがとにかく岩淵さんに任せるしかない。ホテルはウエワクと空港近くのホテルと交換し、食事代は航空会社が負担。翌日のキャンセル待ちが優先的に行われることになった。とはいっても翌日乗れると確定した状況ではなく、PNG到着早々大ピンチとなった。この状況をプラスに持っていこうということで、飛行機は3時15分発なので翌日朝はスケジュールを繰り上げ韓国大使館に行くことにした。とにかく、犯罪の多いポートモレスビーで安全に泊まるところが確保されただけでも幸いであった。

パプアへ入国 子どもたちと 韓国大使館で

 8月28日(火)朝から韓国大使館へ車で向かう。途中で警察に止められる。動き出してから事情を聞くと「警察官に金を要求され断った」とのこと。大使館はポートモレスビーの中心街だ。市場が路上に出て、街の人々の様子はテレビで見るアフリカのような雰囲気だ。車を降りると同時に、岩淵さんから「警戒してまとまって歩くよう」にと指示が出る。 
 大使館では大使が対応してくれた。岩淵さんの息子、建さんは6年前、当時のPNGの韓国大使館に岩淵さんと訪問し、今後韓国の遺族達が来るとおもうのでよろしくと挨拶に行っている。その翌年、建さんは仕事中PNGで亡くなられた。その当時のハングルで書かれた大使館宛の建さんの手紙も持参した。今回韓国の遺族と一緒に韓国大使館に来た岩淵さんの思いも、話さずとも伝わってくる。高さん南さんが話をリードし、「日本の民間団体の支援でPNGに来ることができた。今後、韓国政府としても協力をして欲しい」と訴えた。そんなやり取りの最中も岩淵さんは飛行機のキャンセル確認などで空港に電話をしなければならない状況だ。帰りは大使館の車で送ってもらえた。
 いよいよ空港に行くと、乗れることがわかって一安心。飛行機の切符には搭乗時間は書いてあるが出発時間は書いていない。直接行かずに、マダンというところを経由しウエワクに行くという。PNGでは、飛行機は長距離バスに近い感覚だ。午後3時15分ポートモレスビーを出発。高い山脈を越えて5時25分やっとPNGの北側ウエワクに到着した。
 ニューギニアは、東部がPNG、そして西部がインドネシアのパプア州で国が違う。その北部一帯が日本軍のいたところである。日本軍はニューブリテン島のラバウルに拠点を持ち5万人を越える軍を駐留させていた。その後、1942年7月首都モレスビーに侵攻するためココダ峠越えの作戦が行われ敗退し、東部から徐々に西部に向けて、同じようなことを繰り返しながら敗走する。食料も無く、捕虜になることも許されず、銃弾さえなく。高温多湿のジャングルで、そのほとんどの兵がマラリアを発症し、飢餓状態の中死んで行った。万年雪の山へ逃げても凍死が待っていた。実に93%の兵が生還できなかった。PNGだけでも、ラバウルなどビスマルク諸島で30,500人、東部ニューギニアで127,600人が戦没している(千鳥が渕戦没者墓苑図碑による。)西部を含めれば戦没者は20万人にも達する。ニューギニアの北側に来るとは、日本軍と連合軍の戦闘地であり、同時に日本軍の敗走の地に来ることなのだ。高さんのお父さんはウエワクから西に車で1時間ほどのボイキン村、南さんのお兄さんは西へ4時間ほどのヤカムル村で死亡と記録されている。

大自然が我々の行く手を阻む

 

 

道が川のようになる

 
 

危険でないか降りて確かめる

 

 

川幅が広く渡れない

 ウエワクで飛行場を降り、高さんはしばらくの間、タラップのそばからジャングルを見たまま離れようとしなかった。きっとお父さんに何か話しかけているのであろう。一行は車でホテルに案内される。ウエワクの人口は何人かと現地の人に聞いたが、答えはmany(多い)のみ。あとで調べると2万5千人。学校やスポーツ施設などはあるが、ほとんどが木造のバラック造り。一体どこにそんなに人がいるのかと思う。ホテルは最近建てられた海辺のきれいなホテルで、5年ぶりにPNGに来た岩淵さんもびっくりしていた。
 とにかく国内線乗り継ぎのトラブルでウエワク滞在が1日減ったため、明日は朝からヤカムルに行きチェサ(韓国式祭事)をし、その帰りにボイキンでチェサをしようという事となる。夜の食事は岩淵さんが日本から保冷庫にいれて持ってきた冷凍した魚を料理してもらい、またポートモレスビーの韓国料理店のキムチを出して食事。部屋では到底無理だと思っていたお湯のシャワーも使うことができてほっとした。明日早朝出発に向けて準備を済ませ寝入ると雨が降ってきた。スコールだ。私は疲れて知らなかったが、雨が屋根に直接当たる2階の女性部屋はスコールの大きな音で目が覚めたという。
 8月29日(水)早朝起床し、8時には車で出発。4輪駆動でしか行けないと言うのだからガタガタ道なのか。高さんはチェサの格好に整え、準備万端でヤカムルに向け出発。20分ほど舗装された道が続く。道は海岸沿いの一本道で少し奥に入っているため、海岸側はヤシの木の林で山側はジャングルだ。2車線こそ無いが結構幅は広い。舗装の道はデコボコ道に変る。道路脇にはたまに人が歩いていてみんな手を上げる。歩いている男達は70cmはあるブッシュナイフという大型のナイフを持っている。乗り合いトラックを待っているらしい。大きな町に行って市場に行くという。10分おきぐらいで民家がある。鶏が走り回っている。ボイキン村に到着した。村と言ってもどこまでが村なのかよくわからないが家は数軒しか見えず、人も子どもを入れて10人少しといった程度であろうか。村と言うより集落である。いや集落と言うより数件の家といった感じだ。村長にヤカムルに行ってからまた来ると挨拶をした。この村には韓国人の作った小さな慰霊碑と、日本の遺族が作ったこれも小さな慰霊碑があった。私達は挨拶の後、ヤカムルへと道を急いだ。進んでいくと幾度も川を渡ることになった。橋はすべて流されている。4輪駆動でなければ走れないというはずである。途中で救急車のジープが後ろについた。よく慣れていて難しい川では私達を先導してくれた。というより俺の実力を見ろという感じだろうか。川の中を何十メートルも走ることもあった。1メートルになるような深い川もあり渡ると車内は全員の拍手が自然におこる。昨日の夜のスコールの影響なのだそうだ。 
 こんなことをしながら、ボイキンから1時間半も進んだ頃、私達の前に大きな濁流が現れた。40m以上の川幅が濁流になっている。もし、車が浮いたらそのまま海に流されていく。地元の救急車も川の前でストップ。彼らによれば、もし浅瀬を探して渡れても帰るときはもっとひどくなっているし、この調子では川は明日も同じだという。南さんも川辺で立ちすくんでいる。とりあえず引き返さざるを得ないが、このまま南さんがヤカムルに行けないで帰るなんてできない。「船しかないですね」私と岩淵さんはそんな話をした。とにかく高さんのチェサをするためボイキンへ引き返した。

ボイキンで高仁衡さんのチェサを敢行

 高さんのお父さんは9月3日ボイキンで戦病死となっている。まずは、高さんにどこでチェサをするか決めてもらう。ボイキン村は浜辺の上3mほどのところにある。高さんは浜辺で海の見える方向でチェサの場所を決めた。岩淵さんに聞くと、遺族は祭事の場所はここでしたいという場所を自然に見つけるそうだ。波の音が聞こえるきれいな静かな場所だ。海のずっとずっと向こうは韓国だ。浜辺に台を設置し、横断幕を張り、お供え物や故人の写真などを準備する。突然チェサは始まった。「アボジ、アボジと、どれほど呼んでみたかったか。アボジ、今日はそのように呼びたかったアボジを思う存分声を出し呼んでみます。アボジどんなに悔しかったでしょうか。アボジどんなにさびしかったでしょうか。アボジ故郷においてきた家族にどんなに会いたかったでしょうか。・・・・なんで今頃(遅く)来たのかと、咎めるアボジの声が耳に聞こえてくるようです。アボジ、息子の声が聞こえますか。・・・・」記録しなければと写真を撮るが、私も泣けてきてしょうがない。「アボジ、今日はアボジと一緒にここで無念に死んだ同僚達と一緒に来て、悲しみと苦痛、恨多い心の荷物をいったん置いて、息子の杯をお受けください」とチェジュ島から持ってこられたお酒を砂浜に注いだ。お父さんに用意した服や靴を浜辺で焼き、チェサは無事終了した。十分な時間をとり本人の納得いく場所で、お父さんが見た海を見て、お父さんが見た空の下で本当に声を張り上げアボジと叫び呼ぶことができた。村長にお土産を渡し、別れを告げると私達の周りに蝶が飛んできた。遺族がニューギニアで祭事をすると、その後必ず蝶が飛んでくるという話は聞いていたので少し驚いたが、お父さんが、「こんなに遠くまで、ありがとう」と言って来てくれたのだろう。高さんのお父さんはボイキンの野戦病院でなくなられたと思われるが、スコールの影響もあり現地へ行くのは困難と判断し断念した。ボイキン野戦病院跡には日本の遺族が何度か訪問しているので後日その報告を高さんにすることになった。

韓国からお供えや写真を持参 海岸で アボジに追悼の言葉

 ボイキンからさらに1時間、ホテルに帰る途中に旅行社がある。旅行社と言ってもパソコンはあるが、木造の小屋だ。岩淵さんが英語や現地の言葉で船の交渉を始めた。残る私達は小屋に併設された売店でバナナの揚げ物などを食べて待っている。「油の味しかしないなあ」とか「水木しげるさんはバナナはうまいと言ってたのに」とか言ってたべていると、岩渕さんが「あった、あった救命胴衣があった」とオレンジの服を持ってきた。「これから船を捜す」そうだ。しばらくすると、「上田さん高さん来て」と呼ばれた。今から隣の漁村に船を出してもらう交渉に行くので一緒に来てとのことだ。なんとその漁村は30mほど隣にある。私達が行くとみんな集まってきた。岩淵さんが子どもにインドネシア語を話すと通じて、大盛り上がり。インドネシアの紛争を避けてPNGへ逃げてきた人達らしい。船と言っても10人程度が乗れるボートにヤマハのモーターを取り付けて動かすという代物だが、まあ頑丈そうな船なのでこれで行こうということになった。「ヤカムルなら2時間で行くさ」という。どれだけスピード出るんやと思ったが、車より速いと聞き驚いた。(実際は行き3時間半、帰り4時間かかった)さらに話していると、漁村のリーダーが岩淵さんのインドネシア側での遺骨帰還の取り組みを支えてもらっている代表格の人がおじさんだとわかり、相手もそれなら協力しなければという感じだ。交渉は成立して朝6時出発の約束となる。南さんに「船で行けることになった」と報告。
 だが真夜中にまた激しいスコールが来た。舟を用意してよかった、車だったら確実に行けないところだなどと寝ぼけながら考えていた。
 
小型ボートで3時間半、ヤカムルで南英珠さんのチェサを実現

 

船で4時間近く

 

 8月30日(木)朝になっても雨はやまない。真っ暗の中、雨の中船で行くのかとさらに心配が募る。6時になっても、旅行社の人が来ない。家でまだ寝てるらしい。30分ほど遅れて浜に行ったが船も無い。漁師も寝ているらしい。PNGタイムで、1時間遅れの8時出発となる。外は明るくなりほっとするが、まだ雨だ。雨具を着て、冷えないようにバスタオルを頭からかぶり出発。景気づけに「オッパ今から行くぞ!」と南さんと叫ぶ。やはり不安があるから叫ぶのであろう。船の先には水先案内の漁師が,珊瑚をよける指示を細かく出す。最初は何をやっているのかわからなかったが、珊瑚やゴミ,漁の網などをよける指示を出すのだ。朝の海は静かで、今日の海はグッドかと漁師に聞くとグッドだと答えるので少し安心する。それでも船はすごいスピードで走るので、船首は上下に激しく揺れる。連日、朝昼は食事をせず少しでもひもじい思いをして兵隊さんの状況に近づこうといって出るのだが、あまりにサバイバルな毎日で、お腹がすく余裕もない。南側に砂浜とヤシの木を見ながら近くの岬までまっすぐ走る、その岬を越えると次の岬を目指しまっすぐ走る。1時間過ぎた頃ボイキンだという。ヤカムルまでとても2時間では着かないだろう。2時間半ほど過ぎたころだろうか、海が急に泥色になり波が強くなった。陸から波が来る感じだ。昨日足止めを食らったソナム川の水が海に流れ込んでいる場所だ。広範囲の海が泥色に波打っている。ボートはガタガタゆれる。絶対車で渡れないよ、ソナム川。でもついにソナム川を海から船で越えたのだ。北の空が少し晴れてきて、雨が止んだ。さらに1時間進むとヤカムル村が見えてきた。ヤカムル村は3つの集落があり3番目に村長がいるとのこと。ヤカムルはどのぐらい人がいるのかと聞くと答えはmanyだった。晴れてきたからかヤカムルのそばだからか、カヌーで釣りをする人が何人かいて村長のいるヤカムル村の集落を最終確認して上陸する。船が着く桟橋などないのだからまさしく上陸だ。ボートを村人総出で引き上げてくれる。大人10人子ども10人ほどが集まって引き上げてくれた。上陸の時には空は完全に晴れ。まばゆいばかりの紫外線で私達のずぶ濡れの服もあっという間に乾いている。

ヤカルムの海岸で オッパよ チェサを終えて

 村長に挨拶と説明をし、まずは南さんにチェサの場所を決めてもらう。いろいろ歩いたが、今度は浜辺ではなく海の見える何本かのヤシの木の下の木陰。横断幕や、おじいさんの写真やお父さんお母さんの墓や家の写真、家族の記念写真などお兄さんに見せたいと持ってきたものがいっぱい並べられた。お供え物やお酒が準備された。ヤカムルの人たちも周りに40人ぐらいが取り囲み、参列していただいた。「オッパ(お兄さん)ヨンジュが会いにきました。遅くなってごめんなさい。どうして、誰のためにこんな遠いところで死んだのでしょう。悔しかったでしょう。・・・・」とチェサは始まった。用意していた追悼詞はまったく読まず、ただ南さんは海に向かい心のまま叫び続けた。そして家族の写真の前に行き、「お母さんはお兄さんのことが心配で病気になって死んだのよ。お父さんもお兄さんを探しつづけて死んだのよ。お父さんお兄さんの遺骨を探すのを手伝って」と泣き崩れ、それでもはっきりと叫び続けた。
 お酒を地面に注ぎ、お兄さんのための服や靴を焼いた後、高さんがヤカムルの人たちにお酒を順番に注いだ。高さんはボイキンで、南さんはヤカムルでチェサをした場所の土を韓国に持ち帰り、家族の墓に撒き報告するそうだ。ヤカムルでは、世代が変り戦争のことを知っている人はもういなくなったとのことだ。日本兵の遺骨は隣村にあったが、すでに日本の遺族たちが日本に持って帰ったという話が聞けた。
 帰りは村人30人以上が力を合わせて、船を海に押し出してくれた。海に出るとすぐに蝶がボートのそばに飛んできたらしい。木村さんがビデオに撮ったと喜んでいた。海は昼からは少し荒くなる。途中でボイキンに寄って、前日渡し忘れた贈り物を船越しに渡したが、アボジとオッパが見た、緑の海、砂浜、椰子の木の林、白い雲、目の覚めるような青い空を4時間の間船から見続けた。激しい振動と、はねる海水と照りつける紫外線のなか無事帰着した。

岩淵さんの原動力に触れて
 
 夕食時だったでしょうか、ボイキン・ヤカムルのチェサをやりきったことについて南さんが、「川で行けなくて、雨が降ってお兄さんが来るなと言っているのかと思った。岩淵さんがいなければ、岩淵さんの経験がなければとてもヤカムルに行けなかった」と言うと、岩淵さんが「お父さんや、お兄さんが空から見守ってくれていたんですよ」と答える。高さんが「我々が70年ぶりにはるばる来たのに、アボジやオッパに会えないはずがないじゃないか」と大きな声を出していた。「そうだよ」と私も通訳しながら心で相槌を打っていました。ほんとに2人はよくやり切られた。

 
 

オーストラリア兵士の墓

 高さんから「岩淵さんの情熱はすごいものだ。だけどどこからその情熱が出るんですか?」と質問が出る。「その答えは明日お見せします」と岩淵さん。明日何が見れるのか?
 8月31日(金)朝3時30分起床。4時ホテルを出発。ウエワク空港6時10分出発。ポートモレスビー8時20分到着。英連邦軍人墓地に行く。ニューギニア戦線で日本軍と戦ったオーストラリアなど英連邦軍の戦没者の墓だ。きれいで広大な芝生の墓地に一人一人の墓がある。死亡した年齢・名前・部隊など書いてある。あるところから「a soldierある兵士 その名は神が知る」という墓がいっぱいある。一人一人の遺骨を回収し、名前がわからなくても個人として丁寧に埋葬し、戦後の今もきれいにきっちりと管理しているのだ。岩淵さんはお父さんのなくなったニューギニアに行きたくて、英語を学び現地の航空会社に就職したそうだ。その翌年この墓地を知り、ある人からあなた方の父はこの地で野ざらしになっているということを聞き、その差にショックと怒りがわいてきて、「その怒りが原点であり、エネルギーになっている」とお聞きした。高さん南さんもこの墓を見て高さんは、「我国の大統領は自分達の金儲けだけを優先して、お父さん達を見捨てた・・」と興奮して2人で話し出した。「悔しい、悔しい」と2人は何度も話していた。岩淵さんと同じような怒りが生まれたのだろう。天皇制軍国主義が一人一人の人間を無視し道具のように扱ったのならば、われわれは一人一人の犠牲者と遺族に最大限の人権の尊重をもって接しなければならない。それ抜きに平和など語れない。その後、建さんの墓に行き、ニューギニアに別れをつげオーストラリアケアンズに到着。
 9月1日(土)ケアンズから別れて関空・成田へ帰国、2日(日)高さん南さん関空から韓国へ。

お疲れ様! 関空で日本人遺族の阪本さんと


                   新聞報道  岩手日報(2012年8月21日)    朝日新聞(9月14日)