2009年3月20日

グングン・フィールドワーク(大阪)


   
 
 

竜王宮

 心配された雨も上がり、小寒い天候ではありましたが総勢9名でJR桜の宮駅近くの川べりから、フィールドワークをスタートしました。
 土手をおりて、まずは今回のポイントである竜王宮へ。かつては、中州となっていたことを標す橋と欄干が残る路を通ると事務所兼住居があります。管理者が急逝されていて、残念ながらお話を伺うことが叶いませんでしたので、ぐるりと建物の周囲をみるだけに。社の跡であろうところも今は草が生い茂った状態。8つに仕切られた小屋の板にハングルで竜6、竜7と書かれた文字が残り、そこで何組かの弔いの儀式が行われていたとのこと。入り口近くの小屋には炊事と読める文字が。そこでは供物にする料理を煮炊きしていたのかなと想像しました。多いときには一日に100組以上の在日の方の利用があったそう。この在日の社が創られたのは1920年代と言われ、大阪に朝鮮人多住地域が形成された時期と符号するということ。自らのアイデンティティの原点となる祖霊信仰と本国の民間信仰をよりどころとした祈りと弔いの場であったこの社で、巫女さんを呼び魂の祖国への帰還と解放を祈る儀式があったと想像すると胸が痛くなりました。

 

塚崎さん(左端)の説明で

 

 続いて源八橋を渡り、対岸の土手を下りるとすぐに「日羅公之碑」が。建てられたのは1938年(昭和13年)のこと。当時の新聞によると「日韓文化の媒介者として重大な存在であった日羅公の功績を新たに顕彰し公の忠誠をわが国民に再認識せしめ」(大阪日日新聞)るため、建てられたものと報道されました。国家総動員法ができたその年に、なんで日韓文化の媒介者を顕彰?どんな文化交流が?と訝しく感じたのですが、日羅公の経歴でその内実がはっきりしました。日本書紀によると、彼は「宣化天皇の勅命で百済に渡り、重用されていたが、敏達天皇の新羅討伐、任那擁立の国策のために召還。帰朝した彼は富国強兵の術を建議したが、その際、『表面忠順に見える百済は決して油断ならない、新羅討伐はまず百済から』と建議した。この言動に怒った百済の家来から暗殺された。」と記されているのです。つまり、いろいろな恩義を百済に感じたであろうが、祖国日本のために、忠心を尽くした日羅公の行為はすばらしいという宣伝のための建造物だったというわけです。心に刻んでおくべき教訓を示していると思いました。

 
 

解説する宮木さん

 次に、大川を眺めながら、朝鮮通信使が水上パレードを繰り広げられた当時の様子を、解説していただきました。大坂の河口で川御座船に乗り換えた一行は、大船団を組んで京都まで向かいます。幕府や西日本の各大名の用意した船に乗る漕員、船員だけでも1000名を超える人々が動員されたそうです。豪華絢爛にしつらえた高殿つきの正使船には、朝鮮の管弦の楽士たちの音曲と日本の船頭たちの棹歌が鳴り響いていて、川の両岸には鈴なりの見物人であふれたそうです。タイムスリップできるならこのパレードの様子をぜひ観覧したい、本気でそう思いました。

 

大阪砲兵工廠の搬出口

 
 

アパッチ部落の前で

 

 その後は駆け足で京橋口から大阪砲兵工廠の正門へ。化学工場だった建物や守衛詰め所が撤去を免れて、古びた姿のまま放置されています。当時は城内にくまなくトロッコが走るレールが敷設されていたといいます。爆撃で吹き飛ばされた溶鉱炉関連の鉄のかたまりなど、大阪城公園内のあちこちには、戦争遺構として案内板があってもいいような物や跡地が数々あり(保存運動もあったのですが)一時間はたっぷりかかるので、次回のお楽しみになりました。

 最後に、環状線のガードをくぐり「アパッチ部落」とよばれた周辺を歩いて見ました。入り組んだ路地が「夜を賭けて」(梁石一著)の当時を想起させられました。

 今回のフィールドワークは、大川沿いを歩いて、古代、近代、現代にわたる朝鮮半島との関係を学ぶ、盛りだくさんな企画となりました。精力的に案内をしていただいた宮木さん、「日羅王」関係の資料をくださった塚崎さん、本当に有難うございました。