2004年5月3日

名古屋空襲を追いかけて「瀬戸市地下軍需工場跡」フィールドワーク


 

案内していただいた村瀬さん

 

 名古屋に徴用された李仁浩さん。名古屋飛行場の調査を進めるうちに、航空機製造5位だった軍需工場・愛知航空機が1945年に激しい空襲で打撃を受け、隣接した瀬戸市に地下工場を移したことがわかりました。陶器で有名な瀬戸市は私の故郷。 5月3日、「瀬戸市地下軍需工場跡を保存する会」の事務局の村瀬紀生さんの案内によるフィールドワークが実現しました。

 90年から「保存する会」の努力で、「平和の小径」と名うたれた散歩道が整備されているのですが、正式に発見されたのが84年頃で、地下工場はコンクリートが使われているほんの入り口だけが丘陵に顔を出している状態です。5カ所、4キロにわたったこの地下工場の建設は、海軍設営部隊のもとで大倉組(現大成建設)が多くの朝鮮人労働者を使役して行いました。新規に造られた地下工場としては異例のスピードでできあがり、全国的にも珍しく実際に操業もされていたのです。瀬戸に移設されたのは名古屋永徳工場で、主に特攻機「彗星」の主翼部分が造られていたとのことです。

地下坑道を手掘りする仕事は朝鮮人労働者がさせらた

 
   

 瀬戸の山は陶土に適しているだけあって、砂礫層が風化して柔らかくもろいので、機械による掘削ができず手掘りをしたとのこと。地下坑道の手掘り作業は朝鮮人労働者がさせられました。また麓の小学校が宿舎に当てられていたことや、逃げ出さないように朝鮮人労働者には、白い民族衣装を着せていたことが、「保存する会」の活動で集められた証言集に掲載されています。山の尾根には地下工場に水を供給するための水槽も残っています。
 現在「保存する会」は、公園整備に伴ってこの貴重な戦跡が壊される可能性があることから、保存を瀬戸市に陳情しています。「平和の小径」の整備や、証言集の発行など「会」15年間の地道な努力に敬服しました。再び戦争犠牲者=「戦争遺跡」をつくらないためにも、侵略の事実を明らかにし、謝罪と補償を勝ち取るぞ!とグングン支援の決意も新たに、大阪に帰ってきました。村瀬紀生さん、どうもありがとうございました。 (小川)