2004年4月3日(大阪)

2005キャンペーン「軍都大阪の裏面史を歩く」大阪城周辺フィールドワーク


 

講師の宮本さん

 

 4月3日は絶好のお花見日和。宮木謙吉さんを講師に「軍都大阪の裏面史を歩く」フィールドワークを開催しました。まず鵲森之宮神社(石柱に被弾のあとが残っている)で自己紹介し、大阪城公園内に移動。終戦当時の砲兵工廠図を見ると、市民の森や野球場、大阪城ホール一帯、環状線をはさんだ地域、そしてビジネスパークに広大な兵器工場群が立ち並んでいました。小さな町工場ぐらいのイメージしかなかったので、その広大な規模にたまげてしまいました。
 36万坪の敷地に6万人が、日本陸軍の大砲製造に従事していたのです。各工場は完全なる分業体制、監視体制が敷かれ、自由に工場内を行き来することは許されなかったそうです。資料では、朝鮮人徴用工は1319人(終戦時)と記されていました。廃墟の中から白骨が出てきたというのですが、一体どれくらいの方が生き延びてこられたのでしょうか。市立博物館は、近畿、中部の各師団を統括していた中部軍官区司令部でした。地下には、大規模な地下壕が掘られていたため、建物は地盤沈下しています。そのほか、以下のポイントを見て回りました。
  ・天守閣の角の石垣(1トン爆弾が命中)
  ・水管橋(大阪市が砲兵工廠に発注して作らせた最初の上水道)
  ・防空壕(天守閣の土台となる盛り土につくられているが、入り口は封鎖されている)
  ・石碑真心(耳のいい女性が、敵機の飛来を聞き取るための施設があった)
  ・大阪城ホールの裏にある石造りの水門(明治の創設の頃からあった荷揚げ門)

 
   

 最後に、環状線のガードをくぐり通称「アパッチ部落」とよばれた一画に立ち寄りました。当時住んでおられた方が今も何人かおられるそうですが、ガード下に残ったバラックに面影を残しています。近代的なビジネスパークと対照をなしています。かけあしで、各ポイントをまわったフィールドワークでしたが、明治以降大阪が軍都として機能、繁栄していたことが感覚として理解できました。70年万博、80年バブルによって多くの戦争の痕跡がブルドーザーで覆い隠されてしまったとは言え、まだまだ気をつけて観察すると当時を偲ばせるものが残っていることが確認できました。 (大幸)