2003年7月18日〜21日

GUNGUN原告証言を映像に残すツアー


 今年も「GUNGUN原告の証言を映像に残すツアー」を企画。生存者を中心に13名の方から聞き取りを行いました。

時間がないことを実感した原告との対話(大幸)
 2年ぶりに、訪れた韓国は、雨に始まり雨に終わる4日間でした。19日、清涼里駅から7時50分発の汽車に乗車。隣の若者がスイカにスプーンをつっこんで皆で食べていました。春川まで2時間で2700ウォン。日本円で300円はめちゃくちゃ安〜い!韓国では公共交通が何せ安い!政府がしっかり予算を計上しているから?
 春川駅に到着し、タクシーで遺族会の事務所に行くと、元気な声の金景錫さんがおられま した。昨年足の手術をされたと聞いて心配していたのですが、おしゃべりの声は相変わらず大きくしっかりで、まずは安心。でも階段の昇り降りは誰かの肩を借りて、ゆっくりゆっくり。見るのはつらいものがありました。
 原告の方もすでに来られていてさっそく、証言の聞き取りを始めました。李亨基(イ・ヒョンギ)さんは、娘さんと一緒。耳が遠いので、通訳の丁智恵さんの言葉を大きな声で伝え直してくださり、とても助かりました。青森から北海道に移動する時に米軍の空襲にあい、破片が頭につきささって今も残ったままだと、レントゲン写真を見せてくださいました。以来ずっと、耳鳴りのような音が続いているということでした。
 柳興元さんからは、豆満江の厳冬の中で軍事物資を運搬する仕事をしていたという話を聞かせていただきました。華奢な体で、とっても小さな声で話されていたのですが、「日本政府に言いたいことは何ですか」と伺うと、ふところから封筒を出して1枚の用紙を見せてくださいました。厚生省から届いた「日本軍に所属していたという書類が見つからなかった」という通知。「日本政府には、誠意を持って補償をしてほしい。裁判をして訴えようとしているのに、こんな返事をよこされてはどうしようもない」 。無念な思いが伝わりました。何の謝罪もなく事務的な内容のみの通知ですましているこの対応こそ被害者の怒りをかっているのではないでしょうか。
 お二人はヤンニョンからバスで1時間半もかけてこの事務所まで来られたということです。帰って行かれる姿に、被害者の「もう残された時間が無い」という切羽詰った思いを感じました。


侵略の玄関になった江華島を初めて訪問(木村)
 21日には李熙子さんの故郷、江華島へ行きました。江華島が様々な歴史の舞台になってきたことを案内され説明を聞く中で始めて知りました。草芝鎮(チョジジン)。ここは外敵の侵入を阻止する江華島に数ある要塞の一つ。1875年日本軍艦「雲揚号」が禁を破って接近、草芝鎮に艦砲射撃をくわえた「江華島事件」から日朝不平等条約につながる事件のあった場所です。
 指さす方を見ると、松の木の幹に白いペンキで丸印が。日本の艦砲射撃で傷ついたところを印している。同行のハルモニが「日本人恥を知れ!」。返す言葉もなくその傷を見ていました。車に戻っても「松の木にも命がある、そんな木を傷つけるなんて!」と怒っておられました。
 しかし同行のハルモニたちは道中よくしゃべる、よく食べる。そのバイタリティーには圧倒されました。元気を一杯もらいました。カムサハムニダ! 江華島は朝鮮人参の産地。市場に立ち寄ると試食の人参を口にねじ込まれました。初めは独特の味でしたが後に甘みがあり、つい買ってしまいました。