2001年9月23日

戦没船資料館フィールドワーク


 GUNGUN裁判原告に関わる新たな資料を発見することができました。
 展示の中からは張学順さんの父・張在珞さんが乗船していた辰武丸の復元図と戦没記録を発見。また戦没者の記録名簿の中に金金洙さんの父・金福童(創氏名:朝本福童)さんの名前を発見し、船名は大運汽船所属の第7快進丸と判明しました。1945年6月27日に米軍の魚雷を受けて沈没されたと記録されていました。また、朴吉道さんの兄・朴相守さんの会社名:藤永田造船所と船名:播州丸もわかりました。そのほかに、太平丸と浮島丸の写真と記録も展示されていましたが、残念ながら名前の記録は残されていませんでした。
 今回の調査活動では、小さな木造漁船までをも遠洋に徴用していき、補償はおろか記録さえ残していない日本軍の行為が余りにもひどい!と実感させられました。
 太平丸に関しては浮島丸ほど知られていませんが、その犠牲者の数の大きさからも重要な戦没船の事件だと思います。北海道新聞の記事2つを下に載せておきます。

<戦没した船と海員の資料館>
 「戦没した船と海員の資料館」が神戸市元町の全日本海員組合関西地方支部の会館内にある。武器なき戦いを強いられ、その命を海底に沈めた海員たちの鎮魂と、二度と海を戦場にしてはいけないという不戦の誓いをこめて2000年8月15日にオープンした。ここには1000枚をこえる戦没船の写真・復元図などが展示されるととともに、戦没船の乗組員名簿がまとめられている。GUNGUN裁判の戦没船にかかわる証拠資料も、この名簿から新たに発見できた。韓広導さんの父・韓明竜さんの日本名「韓田永富」、金金洙さんの父・金福童さんの日本名「朝本福重」と船名「快進丸」を確認することができた。名簿の原型は、(財)戦没船員の碑建立会が、碑の建設(横須賀)に先立って、旧日本軍に関する政府資料と船会社の資料を突き合わせて作成したものだ。建立実行委員会が1970年に厚生省調査課業務二課で調査した「厚生省の保管する戦没者原簿」が存在することの意味は大きい。強制連行にかかわる重要な資料を日本政府は隠していたのだろうか。

<北海道新聞>

太平丸沈没*強制連行朝鮮人に多数の犠牲*52年前の悲劇 波間から輪郭*相次ぐ証言、全容解明へ
        1996.11.18 北海道新聞朝刊全道 27頁 朝社 (全1424字)
*「アトラソワ島はっきり見えた」現場特定も
 「一九四四年(昭和十九年)、約千人の朝鮮人を乗せて小樽を出た輸送船太平丸が千島列島のパラムシル島(幌筵島)沖合で撃沈され、多数の朝鮮人が海にのみ込まれた」−。先月下旬、元日本軍属の韓国人、全金◆(チョン・クムドル)さん(75)=韓国京畿道在住=がこう証言したのをきっかけに、当時の日本軍兵士らが次々と口を開き、十七日までに四人の証言者が名乗り出た。朝鮮人の死者は数百人に及ぶとみられ、強制連行者の最大級の受難の全容が次第に明らかになりつつある。全さんは今月下旬にも小樽を訪問し、当時の記憶をたどる予定だ。
 日本人、朝鮮人労働者らを乗せた大洋海運所有の陸軍徴用船「太平丸」(六、二八四トン)が米潜水艦「サンフィッシュ」の魚雷二発を受けたのは、四四年七月九日午前十時前後。あと四時間ほどで北千島パラムシル島に入港する矢先だった。
 新たに、当時、第九一師団輜重(しちょう)隊上等兵として乗船していた奥野一男さん(79)=札幌市=が、「同船は米俵を主に物資をうずたかく積み、間に人を押し込むような形で航行していた。だから、崩れて来た物資に埋まり、多数が逃げ遅れた」と証言した。
 正確な朝鮮人の乗船者数、死亡者数は明らかになっていないが、これまでの証言から、少なくとも四百人以上、多ければ九百人ほどに上るとみられる。奥野さんは「日本人を含めて二千人以上が乗り、半数以上が死んだと思う」。甲板にいて助かった朝鮮人は数十人程度だったらしい。
 同船の悲劇は、戦時船舶史を研究する駒宮真七郎さん(79)=埼玉県=の手で明らかにされていたが、朝鮮人の犠牲者は全く表面に出ていなかった。駒宮さんは「千八百十二人中、九百五十六人が亡くなったと防衛庁などの記録にあり、実際の乗船者がもっと多かった可能性もある。が、朝鮮人にかかわる記載は一切見つからなかっ
た」と言う。
 なぜ、これほど多数の朝鮮人が乗船していたのか−。戦況が悪化し、四三年にアリューシャン列島から撤退した日本軍は、千島列島を防衛線として守備隊の強化と港湾建設を進めたが、「四三年にはパラムシル島柏原湾の港湾工事だけで約千人が動員され、そのほぼ半数が朝鮮人だった。翌四四年も同工事などに人が必要とされた」
(証言者の一人)とされる。
 終戦直後、朝鮮人をめぐる悲劇は、サハリンで日本人憲兵らが朝鮮人を虐殺したとされる「上敷香事件」や、少なくとも四千人の朝鮮人労働者を乗せて帰国途中の輸送船が原因不明の爆発で沈没し、朝鮮人五百人以上が死亡した「浮島丸事件」がある。
 しかし、戦中については具体的な記録や証言は残っておらず、やみからやみへ葬られてきたようだ。
 「将来、沈没地点で同胞を慰霊したい」と話す全さんは、事件の手掛かりを求めて今月下旬にも小樽を訪問する。「沈没個所は千島列島アトラソワ島(阿頼度島)の東沖で、同島がはっきり見えた」など、沈没地点の特定につながる証言もこれまで寄せられており、全さんは残された命の長さと戦いながら、次第に輪郭を現してきた事件
の全容解明を待ち続けている。
 
  証言者     乗船者数       死者数
          ( )内は朝鮮人  
全金◆(75)   不明(950)   朝鮮人大半
今村栄三(82)  不明(650以上) 朝鮮人大半
工藤守夫(76)  2200(450) 1300人=日本人含む    
奥野一男(79)  2000      半数以上
戦   史     1812       956
                   (敬称略) ◇
(注)◆は「石」の下に「乙」


脳裏に浮かぶ悲劇の始まり*太平丸事件*全さん小樽訪問
        1996.11.25 北海道新聞夕刊全道 13頁 夕社 (全768字)
 【小樽】「ここから死の旅が始まった。事実を隠し続けている日本政府が憎い」−。
 輸送船の撃沈で多数の強制連行朝鮮人が犠牲になったことが半世紀ぶりに明るみに出た「太平丸事件」の生き証人、全金◆(チョン・クムドル)さん(75)=韓国京畿道在住=が二十五日、同船の出港地・小樽を訪ね、当時の記憶をたどった。
 全さんは朝鮮半島の郷里から一九四四年に引き立てられ、日本軍属として同船で北千島に向かう前、小樽で一カ月余り軍事教練や労働に従事させられたという。寒風の中、小樽港の第二ふ頭に立った全さんは、つえで小柄な体を支えながら、「この辺りに横付けされていた太平丸に、タラップから直接乗り込んだ。出港は夜中。灯台は見えなかった」と五十二年前の乗船時の記憶を呼び戻した。
 「小樽では、地ならしの労働に連れ出されたこともあった。同胞たちがここで酷使されていたことを思うと、何とも言い難い。そして、千人近い同胞が海にのまれた」。全さんの目が潤み、赤くなった。この日は「収容先は手宮学校」という全さんの記憶をたどって小樽市立手宮小学校も訪ねたが、「こんなふうではなかった」と、様子が違っていることに戸惑いを見せた。
 全さんは、江原道の強制連行賠償訴訟の原告の一人で、東京地裁での判決のため二十一日に来日。原告敗訴で失意の来道となった。同行の太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会所属の金景錫さん(70)も「この小樽に、強制連行の歴史を知っている人が何人いるでしょうか。日本政府は真相を究明すべきだ」と訴えた。
 全さんは、二十五日午後六時半から北海道難病センター=札幌市中央区南四西一〇=で開かれる話を聞く会(会費千円)に出席した後、二十六日に離日する。 ◇
(注)◆は「石」の下に「乙」