遺骨返還問題とは?

 GUNGUN裁判の原告が求める切実な要求の一つが「遺骨返還」です。これまで、日本政府と韓国政府間でもその事実認識に見解相違があるなど、未解決の問題です。遺骨は人格権の問題であり、時効が関係ないことから、GUNGUN裁判でもその扱いが注目されます。

 ここでは、2000年に太平洋戦争犠牲者遺族会ソウル支部(現太平洋戦争被害者補償推進協議会)が韓国政府に対して起こした遺骨返還訴訟の概要を見て、理解を深めたいと思います。        

遺骨引渡し訴訟の概要(2000年11月28日 ソウル)

1. 提訴の背景

* 1993年10月243,992名分の軍人・軍属名簿を日本から引き渡された。
* 1999年度から上記名簿を基礎として、軍人・軍属の履歴、遺骨確認、供託金確認を日本の厚生省に要請。
* 各個人別調査結果に対する回答の中で、1948年2月3日、1948年5月31日の2回に渡って、遺骨が韓国に送還された事実を確認(13名分に対して)
* 遺骨が送還されたという事実を確認したが、多数の遺族が遺骨を受取っていなかったという陳述によって、当時の記録を照会。
* 2回に渡って7,643名分の遺骨が韓国に送還された事実を確認し、この処理に対して韓国の外交通商部に質疑。
* 日本の大使館に遺骨引渡しに関する経緯を質疑し、回答を受け取った。
* 外交通商部では「家族主義の原則に従って処理した」という記録だけが残っており、遺骨を引き渡した記録、引き渡さなかった遺骨の処理に対する記録は、まだ確認されていないという答弁。現在でも記録調査中。
* 直系尊属3名を遺族代表として遺骨引渡しの責任が韓国政府にあり、これを履行しなかった責任を問う裁判を提議する事を決議。
* サミル総合法律事務書の崔鳳泰弁護士を代理人として11月28日にソウル地方法院(裁判所)に提訴。

2.1948年の遺骨送還に対する記録(厚生省社会援護局発刊「援護30年史」)

●連合国総司令部(G.H.Q)管理課の遺骨送還

送還
場所

送還年月日

遺骨数

出港地

船舶名

備     考

朝鮮 1948年2月3日 4,597 佐世保 ポゴダ丸 47.2.26. G.H.Qの司令で遺族が韓国に居住する者の遺骨にだけ限定。韓国釜山に送還。
朝鮮 1948年5月31日 3,046 佐世保 コガネ丸 3,046名分は釜山に送還。陸軍936名分、海軍341名分、合計1,277名分はG.H.Qの不承認で送還されなかった。

現在送還されていない1,136名分の遺骨は日本の祐天寺に保管されている。
 

出身地別 陸軍 海軍 軍人、軍属以外の者
韓国 343 313 49 705
北朝鮮 315 114 430
658 427 50 1,136

軍人、軍属以外の者とは、浮島丸に乗船して朝鮮に航海中、1945.8.24に舞鶴港で沈没して死亡した者。

3.日本大使館の答弁

* 1948年2月3日に送還した遺骨は釜山にあった朝鮮過渡政府の外務部釜山連絡事務所に引渡した。その後の処理は分らない。
* 1948年5月31日に送還した遺骨は釜山にあった臨時政府の日本課に引き渡した。その後の処理は分らない。

4.原告の略歴

1) 朴梅子(ソウル市麻浦区に居住)
 父親の朴冕銖は慶尚南道梁山で海軍の工員として強制連行され、1949年4月1日に南洋群島メレヨンで戦士し、その遺骨は1948年2月3日に送還されたという事実を日本の厚生省から確認した。
 父親の死亡事実を確認したが、現在まで梁山市では戸籍整理をしていないので、父親名義になっている不動産の処理をできずにおり、財産上の不利益を受けており、これを連合通信の記事に載せたが、社会的注目を受けなかった。

2) 宋健太(ソウル市江西区に居住)
 父親の宋堯漢は京畿道江華で海軍工員として強制連行され、1949年2月6日に南洋群島のクエゼリンで戦士し、その遺骨は1948年2月3日に送還されたという事実を日本の厚生省から確認した。
 遺骨確認、強制供託金・郵便貯金を探してくれという嘆願を各界に要請したが、これに対するいかなる応答も受取らなかった。

3)趙英順(仁川市江華に居住)
 父親の趙仁煥は京城(ソウル)で海軍工員として強制連行され、1945年4月19日に南洋群島のメレヨンで戦士し、その遺骨は1948年5月31日に送還されたという事実を日本の厚生省から確認した。

5.訴訟の目標

* 現在まで日帝の占領期間の強制動員被害者に対する真相究明が成されないままであり、それ故に死亡者の戸籍整理、被害者に対する正当な賠償及び補償、被害者に対する国家次元の追慕事業などが成されていない。
* 7,643名分の遺骨中、相当数が遺族達に引渡されなかったものと推定され、これに対する確認作業を持続的に展開する予定である。
* 現在まで数多くの犠牲者に対する明確な真相究明が成されないでおり、被害補償もやはり不完全な状態で終結されたので、強制動員被害者に対する真相究明及び戸籍整理に対する特別法制定を優先的に追求するためである。
* 日帝占領期の強制動員被害者に対するいかなる慰霊事業も国家次元で推進されていないので、これに対する政府の無責任性を告発して、社会世論の覚醒を促すためである。(日本の場合、各地域毎に平和公園が造成されており、毎年犠牲者のための現地慰霊事業、遺骨発掘事業、定期的な慰霊祭などを挙行している。)

6.遺骨送還と関連した日本の訴訟事例

 1995年9月22日、日本製鉄の釜石製鉄所に強制連行されて連合軍の艦砲射撃で死亡した犠牲者の遺族達が、日本製鉄の後身である新日本製鉄と国家を相手取って、犠牲者の遺骨送還と未払い賃金の支給、遺族補償金支給を催促する裁判を提起した。
 1997年9月18日、新日本製鉄側は、遺骨を送還できなかった責任で、遺族一人当り二百万円の和解金を支給し、会社内にある寺に死亡者の名前を刻んで慰霊祭の参席費用を会社側が負担し、韓国からの慰霊祭関連費用として一千万円を原告側に支給する条件で和解した。


●太平洋戦争韓国人犠牲者遺骨返還総合現況(厚生省の資料に依る)

年月日

韓 国 北朝鮮 備  考
1971年 18,141 3,568 厚生省が韓国政府に引渡した死亡者名簿
1948.2.3
1948.5.31
4,597
3,046
  G.H.Qの指示で厚生省から送還
1970.7.1   日本のトクチョク島遺骨収拾団長が、ソウルの日本大使館で遺族に引渡し
1971.3.17   日本の外務省東北アジア課職員がソウルの日本大使館で遺族に引渡し
1971.11.20 246   日本の外務省職員が釜山空港で韓国外務省職員入会下で、遺族代表としての財団法人釜山ヨンウォン理事長のチョンキヨンに引渡し(韓国政府承認)
1973.11.15 240   長崎民団が木浦市に引渡し、95.10.10に望郷のトンサンに埋葬
1974.12.20 911   日本の外務省職員が釜山空港で韓国の外務省職員に引渡して釜山のヨンウォン納骨堂に奉安し、遺族に636個を引渡し、残余遺骨273個は遺族が釜山ヨンウォン理事長のチョンキヨンに委託してヨンラク公園の納骨堂に保管中。
1976.10.1 115   その他九州、北海道で崔チョンス、ペヘウォンが労務者遺骨を奉還し、望郷の丘に移管。
1976.10.28 22   日本の外務省職員が釜山で韓国の外務省職員立会いで、釜山ヨンウォンのチョンキヨンが遺族に引渡した。
1977.5.15 5,000余   李ヨンテク等が南洋群島のタニアンで発掘した無縁故遺骨を望郷の丘に奉安。
1978.5.10   日本の外務省職員が韓国の外務省職員立会いで、釜山ヨンウォンのチョンキヨンに引渡して遺族に引き渡した。
1992.5.20 104   ペヘウォンが東京の大向寺(?)から送還し、金ギョンソクがチュンチョン納骨堂に保管。
1998.3.10   黄海道出身学徒兵1、済州島出身3を日本の厚生省から韓国の外交通産省に引渡し。
残余遺骨 705 430 日本の祐天寺に保管されている遺骨

望郷の丘に無縁故合葬墓域(94.10.2):日本内に散在した遺骨は民団が各県から発掘した遺骨を安置中

GUNGUN原告の陳述書

父の戦死後、正式な死亡申告ができないまま今に至っている。

原告 パク・メジャ(朴梅子)さん

 
   

 わたしは、1943年2月21日に生まれました。両親、姉2人と私の5人で一緒に暮らしていました。農業をし、暮らし向きはあまりよくありませんでした。父は家族のために、金儲けになるからと、軍属に徴用されました。当時は、父が戦争に行ったことなど知りませんでした。ただ、他の村の人々と一緒にどこかへ行ったという事ぐらいは知っていました。父が徴用に行った後、写真と便りなどが何回か来ました。月給は母が面事務所から少しずつもらったといいます。父の代わりに母は農業をしながら、父が送ってくる月給で生活しました。

 1944年、父の戦死通知書を受け取りましたが、遺骨は来ませんでした。私はまだ小さかったので記憶がありませんが、姉がその当時の状況を記憶しています。私は全ての事を姉から聞きました。父が死亡すると、家族は母に結婚を催促しました。結局、母親は再婚しました。それで、残された姉二人は叔父宅に身を寄せ、私は母の実家に行きました。家族がばらばらになって暮らすようになりました。母は再婚しましたが、私との連絡は続いています。母の実家の暮らし向きもいい方ではなかったので、家族みんなが苦しい生活をしました。私は、父に対する記憶もないままに、母と別れる寂しい幼年期を過ごしました。

 70年代、遺族に補償金を支給するという話しを聞きましたが、私は結婚して忙しい生活をしていたので、連絡がとれずに申し込みできませんでした。

 現在まで、父の死亡申告さえ出していません。父の正確な記録を探すために、日本の厚生省に問い合わせをしたところ、父は海軍の軍属で、第4海軍施設部に服務して、1944年4月1日にメレヨン島で戦死したといいます。死没給与金6888円は供託されていて、遺骨は1948年2月3日に送還したといいますが、その事について連絡を受けた事は全くありません。遺骨がどこに捨てられたか分からない状況です。父親の死亡申告を提出するために、厚生省から発行された戦死記録と、日本から引き渡された「被徴用死亡者連名簿」を法院に提出しましたが、通過されませんでした。法院は政府から認定された官印が必要だといいます。そのような書類を持ってくることを要請されて、「被徴用死亡者連名簿」で死亡を証明できる事と公式資料に認定できることを外交通商部に確認を受けて再度提出しましたが、受けられませんでした。一体、何をどうしたら父親の死亡を証明できるのか非常に苦しむのみです。

 父親が徴用されて名称すら聞いた事もない遠い所で死亡し、母親は子供を残してやむを得ない再婚をしなければなりませんでした。そのように私の兄弟はばらばらになって、見苦しい生活をしてきました。父が死亡して56年が経っていますが、まだ死亡申告できないまま、今日まで至りました。すぐにでも死亡申告できる事を願っています。

 被害者たちに対して何の謝罪のこともしない日本政府を怨むばかりです。父が経験した苦痛と、家族の苦痛に対して、韓日両政府から正当な補償がなされる事を希望します。

日本という国は父だけでなく後世にまで苦痛を与えた!

原告 クォン・スチョン(権水清)さん

   
   

 私は、1938年7月26日、慶尚北道尚州郡尚州面道南里539番地で生まれました。父・母・姉・弟・そして私が一緒に暮らしていました。父は、慶尚北道ソンサンの消防署で消防官の仕事をしていたため、家族はしばらくそこで暮らしていましたが、生活は苦しかったです。

 父が徴兵された経過は、当時私がまだ幼かったので、よくわかりません。徴兵されて1年で解放を迎えたので、1944年に徴兵されたのだと思います。慶尚北道ソンサン郡に同じ村から父と一緒に徴兵された人がいると聞いて伺い、父についての話しを聞きました。部隊別に配置するため整列させていた時、父の立っていた列は洞窟の中に配置され、その洞窟に行く途中に爆弾が落ちて死亡したと聞かされました。父から手紙は来ていましたが、給料が送金されていたかどうかは、母が早く亡くなったのでわかりません。

 解放になっても父は帰って来ず、1年くらいソンサン郡で父を待ちながら暮らしました。父は戻らず、母も病気になって、残った家族は母の実家の所へ行きました。おじさんが母の面倒を見ようと努力してくれましたが、結局母は貧しい中で、一度もちゃんと薬を飲むことなく、危篤に陥りました。危篤になると「家で死にたい」と言って、また尚州に引っ越しました。尚州に引っ越してすぐに、母は亡くなりました。私は幼かったので、正確な病名はわかりませんでしたが、周辺の大人たちは母は火病(怒りのために起こる病気)で亡くなったと言いました。

 父は帰って来ず、母まで亡くなると、9歳になった私は祖父の弟の家に行って暮らし、弟は祖母の家に行くなど、離れ離れの生活をしていました。私は、祖父の弟の家で1年程度暮らして、その家から出て、一人で旅を重ねました。親に面倒をみてもらいながら学校に行くべき年でしたが、日本という国は父だけでなく後世までに苦痛を与えました。祖母が亡くなると、弟はおじさんと一緒に暮らすことになって、私が客地で金を儲けて生活費を補ってあげました。弟はまた祖父の弟の家に行って暮らして、私はその後、その家から出て、客地で生活するようになりました。ウルサンやプサンを渡り歩き、1970年にソウルに来て定着するようになりました。

 幼い頃から手に余る苦労をし、職を探し定着できずに客地を渡り歩いてきたので、ちゃんと勉強もできず、ただ食べて生きることで精一杯でした。その間も父が帰ってきそうで、今日帰るか、明日帰るかと思い、死亡申告もしないままでしたが、知らないうちに父は死亡になっていました。除籍謄本には、父が1948年に死亡して、私が1967年に死亡申告したと記録されていました。今でも父を待っている心に変わりないのに、誰がこんな申告をしたのかあきれるばかりです。

 1970年代に韓国政府から補償金が出るという話しがありましたが、ソンサンにいる叔父さんが知らせてくれてわかりました。当時私は生活が苦しかったし、申請手続きがよくわからなくて、申請できず、その後調べた結果、請求期限が切れたと言われました。

 1996年に、父についての死亡記録を知るために、日本の厚生省に調査要請をしたところ、身分が陸軍軍属だということだけがわかるのみで、死亡記録はないとのことでした。名簿にも生死不明と記録されていました。父の消息を考えると心が重苦しいです。

 一つの家庭の家長を強制的に連行していって、死んだか生きているのかもわからないまま父を待っている途中に母まで亡くなって、幼い子ども達は孤児になって苦痛な生活を強いられました。現在まで生死確認さえできず、残った家族の被害はあまりに大きいけれども、今まで何の補償の恩恵も受けられませんでした。個人で生死確認と、遺骨を探すのには限界があります。韓日両国政府は、生死確認と遺骨探しを積極的に行なうべきです。一日も早く正当な補償がなされ、遺族の怨みが少しでも解けるよう、努力をお願いします。