李炳柱さんの陳述書

1.強制徴兵からソ連軍捕虜になるまで

  本人は1945年8月9日、北満州ソ満国境に隣接する海拉爾(ハイラル)市に駐屯していた日本関東軍歩兵第362部隊に入隊せよという赤紙の召集令状を受け取った。日本は1944年の初めから太平洋戦線の到る所で敗戦を重ねて壊滅し始めるや、不足した兵力を補充しようと異民族である朝鮮青年を強制して駆り出し、最前線の死地に追いやった。
  このような強制徴兵を忌避する方法はなかった。父母と家族が引っ張られ残忍な拷問の末に殺される目にあうからだった。
  朝鮮人の徴兵者300名が362部隊へ一緒に入営して各中隊に分散配置されたが、支給された軍服に着替えていた最中に突然砲声が聞こえたと思ったら海拉爾(ハイラル)市が燃え上がり、戦車と飛行機の奇襲を受けて部隊はあっという間に修羅場と化してしまった。
  1945年8月9日、ソ連が宣戦布告と同時に全ソ満国境にわたり一斉に侵攻してきたのである。部隊はひとつも交戦できず後退を重ね、88km南の興安嶺師団司令部に8月12日到着した。ソ連軍戦車部隊が興安嶺の真正面の博克図まで進撃するや、急造の爆雷を胸に縛り付け肉弾で敵の戦車を攻撃する特攻隊を編成しようとしたが、年長の日本人補充兵は一人も志願する者がおらず、朝鮮人初年兵を強制的に差し出し、終戦を目の前にして数十名が無惨にも死んでいった。
  1945年8月17日、下山して富拉爾基に移動し武装解除した。8月18日、斉斉哈爾(チチハル)に移動し、以前の日本軍兵舎に集結した。正にこの日よりソ連軍の捕虜になったのである。この時、日本人指揮部は終戦になったにもかかわらず朝鮮人の徴兵者たちを帰還させず、日本国籍に創氏改名した日本人名を捕虜名簿に包含して作成し占領当局に提出した事実を後になってはじめて知った。

2.シベリア抑留と重労働

  1945年9月中旬、貨車に積まれシベリアに移送された。13日頃に中部シベリアのエニセイ河畔のクラスノヤルスクに到着し、第5収容所に収容された。本人は翌日から直ぐに脱穀機工場で重労働が始まることになった。給食は、朝食に黒パン(燕麦パン)350g、昼食に野菜スープ1杯、夕食に雑穀粥1杯、それで全部だ。着て行った夏の軍服で零下40度の冬を過ごさねばならなかった。後に分かったことだが、関東軍抑留者60万名中、最初の冬だけで凍死、餓死、病死した者が6万名に達したという。冬に地面が1m以上凍るので、死体を冷凍して倉庫に薪のように積んでおき、翌年の解氷期(5月)に大きな穴を掘り一度に埋葬してしまった。スターリンは抑留者を人間以下に取り扱い、牛馬のように酷使した。過度のノルマ(責任作業量)を策定しておき100%以上超過達成することを強要し、給食にも影響を与えた。特に煉瓦工場と伐採場は到底ノルマを遂行できない重労働であった。労働賃金は一文も受け取らないまま、3年4ヶ月の奴隷労働に終止符を打ち、九死に一生を得て1948年12月帰国の途に着いた。

3.謝罪と補償の要求

  帰還者2,300名中、満州に約1,000名、北朝鮮に約800名、韓国に約500名が帰還したが、韓国は当時南北が尖鋭に対立しており、厳しい冷戦時代に敵性国家から帰還した者を歓迎することができない実情により、帰還者たちは社会生活で相当な制限と不利益を甘受することしかできなかった。
  日本は不当に朝鮮青年を侵略戦争に強制徴兵し10数万名を死なせ、敗亡と同時に朝鮮に対する植民支配が終わったにもかかわらず朝鮮人徴兵者たちを日本人として捕虜名簿に記載したことから、シベリアの生き地獄に引っ張っていかれ長期間過酷な奴隷労働に従事しなければならなかったことは、日本の根源的な犯罪行為に起因したことである。従って日本は加害者として過去の罪科に対する猛省を促し、被害者に対して衷心より謝罪しなければならないだろう。
  本会会員は1994年政府外務部を通じてロシア政府より労働証明書を発給してもらった。抑留者が帰還するときにソ連当局が支給しなければならない労働賃金の残額が平均4,500ルーブルであると記載されていた。ルーブル貨の海外搬出を禁止した国内法に従って支給できないと説明している。それ故に、抑留者を派送した日本がその責務を負い、未払い労賃を支給しなければならないことは自明の事実である。
  日本は過去の過誤に因って数多くの被害者たちが莫大な精神的、肉体的な苦痛を受けた事実を認識し、客観的で妥当性のある応分な補償金を支給するよう請求する。
  同時に去る6月10日“戦後強制抑留者に対する特別給付金支給に関する法律案”が民主党の発議で衆議院に提出されたことを参考にされたい。

2004年 6月 30日

韓国シベリア朔風会  李 炳 柱