金幸珍(キム・ヘンジン)さんの陳述書より

 私は、1922年6月8日、全羅南霊巖郡で生まれました。その当時、父・母・兄・弟と一緒に農業を営みながら生計を立て、暮し向きは中産層程度でそれほど不便のない生活をしておりました。
 1941年8月に警察官が令状を持って来て、軍に行けばいろいろな便宜も与えられると言われて入隊することになりました。霊岩面では1人(だけ)令状を受け、村の住民たちの見送りを受けながら汽車に乗って龍山へ行きました。
 龍山歩兵22連隊で6か月間軍事訓練を受け、訓練が終わって帰宅措置を受けて家に帰りました。1年も経たない1942年3月ころにまた令状が出て、再び郡庁で歓送式をしてもらい、京釜線の列車に乗って釜山市赤崎に到着しました。7420部隊に入隊して高射砲部隊で6か月間の訓練を受け、照空隊で3か月の訓練を受けました。
 1942年12月ころに釜山第1埠頭へ移動して輸送船5隻に部隊員たちが分乗して日本の佐世保軍港に寄港して、さらに6隻の輸送船と合わせて11隻が南方へ向かいました。行く途中3隻は魚雷艇の攻撃を受けて沈没し、8隻がソロモンへ向かいましたが、3隻は他の島へ行ってありませんでした。5隻がニューギニア諸島のある地域に上陸しようとしたとき、米軍の陸海空軍の砲撃と島にいる米軍の反撃にあい、5日間昼夜にわたり戦いつづけ、数百名の死亡者を出しました。そのとき発生した死亡者の処理もできないままに後退の命令が発せられてブゲンビル島へ後退しました。
 約3日後にブイング地区に上陸して毎日米軍と戦いながら終戦のときまでそこで駐屯していました。その島で米軍と豪州軍、日本軍が分散して駐屯していたし、1944年ごろから補給は全然なされず、通信も途絶えました。8軍師団司令部とも連絡が途絶えるほどに極度に悪化した状態であったし、食糧がなくて現地で魚をとるとか、ヘビとかトカゲなどを捕まえたり、草を採集するとか木の根っこを掘って食べながらすごしました。部隊員に命じて海水で塩を作って塩分を補給させたし、不発弾の爆弾を分解して硫黄を取り出して私製ダイナマイトをつくって爆破させて魚類をとりました。
 24時間米軍の飛行機が日本軍を監視するために上空を絶えず偵察していました。行動の制約をかなり受けたために軍事行動に大きな困難があったし、特に私の部隊は高射砲部隊であるためにいつも待機していなければなりませんでした。高射砲弾道が古くて、撃つと2000mも飛ばずに上空で破裂するために米軍に部隊の位置が知られてしまうので、砲は発射できず、待機だけしていなければなりませんでした。
 軍事郵便はありましたが、補給が途絶えたために手紙は送ることも受け取ることも出来なかったし、月給も一銭ももらえませんでした。
 解放の消息は1946年1月に米軍の飛行機から通信弾落とされてわかったし、通信弾の中に武装解除せよとの通知書がありました。8軍司令部の指示で1946年2月、武装解除されました。米軍では各部隊員たちを隔離して収容しましたが、1日の補給がパン2個、牛乳2本ずつをくれたし、約1か月後に日本軍兵員船の永川丸にインドネシアなどから撤収民(台湾人が多かった)たちと同乗して台湾を経由して釜山港に入港しました。
 韓国の撤収民は30余名、軍人は11名が釜山港に上陸しました。帰還歓迎会で旅費として1千円、握り飯2個を受け取って貨物汽車に乗って帰りました。家に帰る途中の大邱と清道の間のトンネルの中で汽車の連結管が切れて汽車から吐き出された煙のため窒息して40余名が死亡したりもしました。
 家に帰って戦争の後遺症により、仁川道立病院で1年ほど療養して鉄道警察学校の助教として暮らしました。
 私が27歳になる年に結婚し、子どもは二男二女をもうけました。結婚をして自営業を営み、また新聞社で20年ほど勤めました。定年退職して現在は仁川広域市中区老人会監査として社会奉仕をしています。
 若くして日本軍に強制的に徴兵され、辛酸を嘗めなければならなかった苦痛、米支給の賃金などに対する正当な補償を要求したいと思います。
 
 2000年6月27日