第6回口頭弁論 2003年4月16日 東京地裁


「夫の生死を確認して!」来日の原告が訴え!

 

「78歳の私が死ぬ前に夫の生死確認を!」

 

 4月16日、グングン裁判の第6回口頭弁論が開かれました。本口頭弁論には、原告・崔乙出(チェ・ウルチュル)さんが78歳の高齢にもかかわらず、「徴兵され、帰ってこない夫・韓韓国(ハン・ハングク)の生死を確認したい」と強い思いを胸に来日しました。

法廷で、両手を胸に組んで訴える
 11時からの口頭弁論では、まず始めに原告側の提出した準備書面を確認。準備書面Yで靖国合祀問題を、準備書面Zで日韓請求権協定・法律144号(注)について明らかにした。
 続いて原告・崔乙出さんが陳述に立つ。胸に両手を組み訴える。夫は、1945年6月に徴兵され関東軍へ。3ヶ月の身重の体で崔さんは夫を送り出した。村で出征の見送りが行なわれ、家には出征を記す「日の丸」が掲げられた。1週間後、夫の私服が送られてきた。1ヶ月半後韓国は解放されたが、夫は遂に帰ってこなかった。乳飲み子を抱え、苦労の連続だった。今、もうすぐ80歳。命があるうちに夫の生死だけでも確認したい。新聞記者をしている息子が厚生労働省に何度も確認したが、「資料がない、分からない」という返事しかなかった。最後に、裁判長に向き「私の恨を、心の苦しみをといて下さい」と訴えた。

 

参院院内集会で

 

●不当棄却決定抗議の記者会見でもアピール
 12時から、参議院議員会館で、3月末に最高裁から連続して出された不当判決の抗議の共同記者会見が行なわれた。在日の宋神道さんの裁判、金順吉裁判、江原道裁判など6つの裁判で、いずれも理由も明らかにしない門前払いの不当決定であった。
 各弁護団は、「最高裁の門前払いは彼らの弱さの現れ」(対日民族訴訟団弁護団・池益杓弁護士)と決定に抗議するとともに、問題は何も解決しておらず、今後の裁判への期待も明らかにされた。(共同声明要旨は ニュースレターbP9に掲載)
 


 

 

厚生労働省との交渉

 

●「資料がない」では済まされない
 2時半からの厚生労働省との交渉では、あらかじめ問い合わせていた崔さんが一番望む夫・韓韓国さんの消息についての回答がなされた。厚生労働省からは、所属したと思われる関東軍部隊の説明はされたものの、韓さんのことになると「資料がない」との返答。部隊への所属の資料もないというのだ。「あと1ヶ月半で解放という時期に引っ張っていき、わからない、資料がないですむことなのか。調べ尽くすのが義務ではないか」(崔さん)と追及。最終的に、名前だけでなく、本籍などから捜すことを確認し、今後も捜しつづけることを要求した。
 


●靖国、日韓協定で新たな進展
 5時からの「原告を囲む集い」では、大口弁護士から注目すべき報告がなされた。一つは、日韓協定・法律144号について、「日本の法律で韓国人の請求権を消滅させることができるのか。これは憲法違反だ。これを証明する研究者の協力が得られることになった」こと。もう一つは、靖国合祀問題でも韓国側の力強い協力が得られることになったことである。

 

真相究明法について語る閔然秀さん

 

 最後に、今回高齢の崔さんに付き添って来日された閔然秀(ミン・ヨンス)さんから韓国内での真相究明法の取り組みについて発言があった(ソウルにある民族問題研究所のスタッフ。真相究明法の成立のために奮闘中)。「崔さんのような戦争被害者に私たちができることは、日帝強制動員真相究明特別法を成立させること。そして、補償をさせることです。被害者は希望を捨てていません。在日の洪祥進さんが韓国で公開した死亡者41万人の名簿の展示を行ったところ、問合せが多くありました。全国での巡回展示の必要性を感じます。生存者は高齢化し、遺族からの問い合わせも多くあります。今、3世=若い世代層の会が作れないかと構想を練っています。真相究明法は今年のうちに何とかしたいです。今日、一日行動をともにして、戦争によって被害を与えたのも日本なら、癒そうとしているのも日本人であり、その矛盾を感じざるをえませんでした。被害者は今なお希望を捨てていません。今からでも真相を明らかにし、補償を実現したいと思います。」


 

何も手がかりがつかめず涙をぬぐう崔さん

 

 この日、ハードスケジュールを最後までつきあってくれた崔さん。「日本人が韓国人のことをどう思っているのか分からない。何の説明なく連行し、その消息さえ分からないまま。こんなことが許されるのか。辛くて苦しい一日だった」という言葉が心に突きささる。真実を覆い隠してきた日本政府の姿勢に加え、戦後60年という時間の壁が解決を困難にしている。しかし、被害者の希望に応えるためにできるだけのことはしなければならない。

 

 

法律144号とは?

 正式の名前は、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国の間の協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」(1965年法律第144号)といい、これで韓国人の請求権がなくなったというのだ。

関東軍とは

 関東とは中国の山海関以東の一帯、つまり奉天、吉林、黒龍江三省(当時)に対する名称で、イコール「満州」のこと。1905年日露戦争の結果として満州を支配した日本が1万人の兵力を配置し「関東軍」と呼んだ。満州事変など「謀略」と「独走」で特徴づけられる。終始ロシアを仮想敵国においた北向きの軍隊で、戦争末期の配備兵力は70万人だったが、南方戦線の状況悪化とともに兵員が南方に転用され、それを補う形で朝鮮人が徴兵され、配置された。あとは沖縄戦と同じ「国体護持のための時間稼ぎ」として位置付けられた。戦後65万人が「役務賠償」としてソ連に提供され、シベリア抑留された。

 

チェ・ウルチュル(崔乙出)さんの 陳述書

 私は1925年8月5日、慶州北道サンジュ郡ウェナム面ソウン里256番地で生まれました。私の夫であるハン・ハングク(韓韓国)は1924年陰暦5月9日(陽暦6月10日)、忠清北道オクチョン郡チョンソン面ミョグム里で生まれました。日本名は清本国、または清本韓国で、当時、夫の職業はヨンドンナムテイ国民学校オジョン里分校の教師でした。夫が徴兵されたとき、私は妊娠していました。

 1945年陰暦5月5〜6日(陽暦6月14〜15日ごろ)韓国人の徴兵1期として戦時動員の知らせ(令状)を受けました。その2〜3日後、徴集対象者の義務事項である忠清北道 ヨンドン村内の神社に参拝し、参拝のときに境内の松の木に名札を作ってかけまし た。

 1945年陰暦5月11日か12日(陽暦6月20日か21日)、徴集されたほかの人たちと一緒に去っていく前に夫は戦時中必要になったときに使うのだといって白い手ぬぐいを作ってくれと言いました。おそらく夫は戻ってこられないことを予想していたのでしょう。夫とともに出征した同郷の友人、キム・ホングンさんの証言によると1次終結場所の忠清北道オクチョン郡オクチョン中学校に終結、当日の夜か翌日にソウルのヨンサン222部隊(補充隊)に出発したとのことです。ソウル・ヨンサン222補充隊に到着して何日かあと、夜行列車で一緒に満州に移動しましたが、延吉付近で別の部隊になり2人は分かれたとのことです。しかし夫、韓韓国の部隊の位置は郵便記付が出てきて同じ127であることから推察するに、琿春市近くであったと思われます。兵科はおそらく騎馬兵でしょう。当時、キムさんの部隊はソ連と満州の国境地帯の黒龍川まで進出もし、部隊員の訓練内容は食べるものもなく激しい飢えに耐え忍びながら個人塹壕や電気鉄条網が巡らされるなかを戦陣配置され、ソ連軍との戦闘に備えて兵士が爆弾を抱えてソ連軍の戦車に突進する、いわゆる対戦車肉薄攻撃である「特大演習」を繰り返したといいます。

 延吉の西側にある朝陽川付近の山中で過ごしているうちに8月15日、解放の日を迎え、一部の将校は腹を立てて残りの命令を聞かない兵士たちを塹壕の前に目隠しをし てひざまずかせ日本刀で首を切ったりもしたとのことです。そうして何日か過ぎ、ソ連軍が進駐して全部隊員が武装解除させられました。部隊員はソ連軍の捕虜になって 労務者生活をさせられ不安な日々を送っていましたが、とても耐えられなくなったキムさんは4人の韓国人と相談して夜間に部隊を脱出、九死に一生を得て生きて帰るこ とができたのです。当時多くの兵士がソ連軍との戦闘で死亡しており、一部はソ連軍の捕虜として引っぱられていきもしたとのことで、なんの知らせもない私の夫の場合 も、そのとき死亡したか、生きていたとしてもソ連軍の捕虜になっていただろうと思われます。朝鮮戦争以降、姑が夫に関する資料をすべて焼きはらってしまったため、 現在残っている物はひとつもありません。

 夫が最後に残した血筋であり贈物である息子とともにわが人生を生きてきながら夫を忘れたことはただの一度もありません。今回の裁判のために私が日本に行くことに なったとき、まわりの人たちは夫に会いにいけて嬉しいだろうとうらやましがりましたが、私は私の記憶のなかで20代の青年のまま変わらずにいる夫に会うという思いで 夜も眠れませんでした。

 最後に、いまこそ政府の積極的な努力と支援で真実を明らかにし、日本は正式に私 たちに心のこもった謝罪と反省をすべきだと思います。

2003年4月12日