第5回口頭弁論 2003年1月22日 東京地裁


 「私が死ぬ前に遺骨くらいは返してほしい」(呂明煥さん)
 

 

内閣府で訴える呂明煥さん

 

  「物事にはみな結末があるのです。その結末をつけずにこのまま見過そうとすれば同じ過ちを繰り返すことになるに違いないと思うから、私はこうしてここに立っているのです」「せめて、私が死ぬ前に遺骨くらい返して欲しい」
 1月22日、第5回口頭弁論で原告・呂明煥(ヨ・ミョンファン)さんは、このように訴えました。今回の来日で呂さんが一番訴えたかったのは、遺骨の返還。遺骨がないために、今なお、亡父・呂昌寛さんのお墓を作れないまま。祖先を大切にする韓国では非常に大切なことなのです。
 口頭弁論に先立ち、内閣府への申入れも行ないました。遺骨の返還と共に供託金の返還も強く訴えました。「父の死と引き換えとなった未払い金を、何故、返還してくれないのか」。海軍軍属身上調査表の供託金の欄には「俸:7083.8、引:2700、葬:40、扶:1100」の記載が。3年分と思われる7000円を越える俸給のみならず、葬祭料・扶助料まで供託し、返還しないという。また、太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会、太平洋戦争被害者補償推進協議会、支援する会の連名で、1月14日の小泉首相の靖国神社参拝に抗議すると共に、「被害者がまだ生きているうちに解決」するよう要求しました。昨年、福田官房長官が「戦後処理の窓口の一本化の検討」と言ったが、未だその結論もまだでていないということでした。
 翌23日は、1時間に渡り靖国神社に合祀取消申入れ。呂明煥さんは「私たちは望んでいない。すぐに取消を!」と訴えましたが、対応した花田権宮司は「みなさんのお気持ちはよくわかる」と言いながら「合祀の取消はできない」を繰り返すだけでした。
 裁判(第5回口頭弁論)では、被告の国側は、40ページ近くの準備書面(3)を提出。靖国合祀通知については、相変わらず「一般的な調査・回答事務として行なっていたもの」とし、合祀は靖国神社が行なったことなので「損害賠償義務も負わない」としています。未払い金については、(日韓協定に伴う)法律144号により「(軍人軍属の給料債権は)既に消滅している」と予想通りの主張を並べています。
 次回は4月16日です。ぜひ法廷内外の闘いで、日本政府の不当な態度を打ち破っていきましょう。

  ◆ 次回 第6回口頭弁論 4月16日(水)午前11時〜 東京地裁722号法廷

呂明煥さんの陳述内容

 被害者呂昌寛は故郷で大工として生計をたてていましたが、第二次大戦が最盛期の1942年春、私の年齢で満5歳になった年に、強制徴用令状が送られてきました。村で歓送をするというので、私は靴も履けないままついて行った覚えがあります。それが父との最後の別れだということを知らないまま、そのように父がいない歳月が始まったのでした。

 大工として仕事をしていた方の関係で、海軍所属の軍属であっただろうと知るようになり、幾度かの手紙も送ってきました。しかし昭和20年6月1日、南洋群島のトラック島で死亡したという知らせと一緒に、遺骨もなく、髪の毛、手の爪、足の爪だけを同封してきました。これが父との再会でした。私が5歳のときでしたので、母はとても若かったでしょう。幼い息子と妻をおいていくしかなかった父の心情がどんなものであったでしょうか?

 私の国の戦争に行くわけでもなく、望んだわけでもない他の国、それも敵国の軍人になり、戦って死んだ一人の男の運命がどれだけ凄惨で苦痛であっただろうか、そして戦いを知らなかった純朴な大工が、ある日突然戦闘員になったことはどれだけ情けなかったことでしょうか?

 家族もなく、どこかもわからない遥か遠い国で、苦しみ死んでいった父を思うと胸が詰まります。

 私の国の軍人として国の為に犠牲になったというなら、私達家族も誇らしくし、苦痛に耐えながら生きてきたことでしょう。しかし、そういうものではない苦痛の歳月を、この恨みを、どこに誰に訴えるというのでしょうか? 遺骨でも受け取ったなら、このように情けないとは思わなかったでしょう。子供としての道理も知らず生きてきた人になってしまいました。私が死ぬ前に遺骨でも返してくれるように願います。

 今となっては歳月がすぎ、韓国人も日本人も戦争を望みません。その誰もが戦争を望まないことでしょう。世界がひとつになるこのときに、些細な過去を問いただそうというのではありません。過ぎたことではありますが、事実であり、民族と民族の間にあったこの重大な出来事に対して結末をつけず、お互い歩み寄ろうと言うのは矛盾したことです。これから二国間の未来にそのようなことが再びあってはいけないと思います。すべてのことに結末があるのです。その結末をつけず、そのままにしておこうというのなら、また再び同じ失敗が必ず繰り返されると思うので、私はこの席に立ちました。そして和合の結末をつける時まで闘いつづけます。

 そうすることで、二国間に真の和合と世界平和に向かう道が開けることでしょう。

軍人軍属裁判原告 呂明煥
 

原告・呂明煥さんを迎えてのワークショップを開催!(1月21日大阪)

 

トラック諸島の地図を見る呂さん

 

 1月21日GUNGUN関西では、翌日に第4回公判での意見陳述のために来日された原告・呂明煥さんを迎えて、ワークショップを開催しました。
 ワークショップは、@真相究明の助けになる事実関係を調査し、原告の望みを実現するために何ができるかを考える Aできれば裁判に役立つ資料を発掘する B原告との関係を密にし、サポート体制の強化に役立てる 、などを目標にしました。



 

呂さんの証言を聞く!

 まず、呂さんのお話し。呂さんが満5歳の1942年春、父の呂昌寛さんは強制徴用されました。1945年6月1日、南洋諸島のトラック諸島夏島で死亡したと連絡があり、知らせと共に髪の毛、手足の爪が同封されましたが、遺骨はありません。若い母と幼い息子を残して死んだ父の心情を思うと胸がつまると語る呂さん。何よりも遺骨と、未払い金を返して欲しいと強調されました。
 

呂さんのお父さんの戦場は?

 次に、私たちが呂昌寛さんの死亡時の事実関係について調べた内容を報告しあいました。
 呂昌寛さんが亡くなったトラック諸島の夏島(デュブロン島)とは、グァム島の南東約100km、現在はミクロネシア連邦内にあり、戦争中は日本の連合艦隊の泊地でした。
 1941年12.8ハワイ真珠湾攻撃により、日米は開戦。1942年ミッドウェー海戦以降、米英などの連合軍は、攻撃を強め、周辺の島々を全滅させた後、1944年2月17〜18日にトラック諸島を空襲。事前に危機を察した日本の連合艦隊は、数日前にパラオに逃走。この空襲で戦力のほとんどを失った日本軍部隊は、直後から自給生活に。当時トラック諸島近辺には10島ほどに分散し、日本の陸軍・海軍合わせて43000人が駐屯。孤立し残された軍人たちは、貯えていた食料を食い尽くし、小さな部隊ごと自らの食料を守ることに必死でした。1945年8.15の敗戦時、生還者は37000人いたが、この自活生活の約1年余の間に、餓死や飢餓がもとで病死した者が6000人にも達しています。ここでの死亡のほとんどが「餓死」なのです。
 

「身上調査表」から見えてきたもの

 呂さんが、韓国大田にある政府記録保存所で手に入れた「海軍軍属身上調査表」(別紙陳述書の裏面参照)の記載内容からは、呂昌寛さんは「1945年4月15日より栄養失調で病院に収容され、6月1日、栄養失調症で戦病死した」ことが読み取れます。おそらく前年から武器などもなく戦うにも戦えない状態で、一方で「よその縄張りからサツマイモ一本でも盗んだら銃殺しても文句は言わないという暗黙の了解があった」というほどの極度の食糧不足状態で栄養失調になり、最後は病院で亡くなられたのでしょう。
 

呂さんの望みをかなえるために・・・

 呂さんの、望んでいる「遺骨返還」は、お父さんが死亡した病院での埋葬場所等の記録が確認できれば、可能かも知れません。(現在、夏島には日本人向けの戦跡ツアーコースがあり、当時の建物跡等もいくつかは保存されているらしい) また、調査表には「遺骨は23.5.31に送還」との記述があることから、厚生労働省に、もっとあるはずの資料を開示させ、日本人遺族にしてきた遺骨収集などの取り組みをGUNGUN原告たちに対しても行うよう、要求を突きつけることも必要だと感じました。一方で私たちサポ ーターが生存者から話を聞き取ったり、現地調査に取り組むなどできることをやろうといった意見が出されました。
 このワークショップだけでは到底呂さんの期待には応えきれませんでしたが、原告をサポートしていくための具体的な課題が見えてきました。今後できるだけ多くの原告に、私たちが個人やグループでサポート体制をとり、原告の望みを少しでもかなえることができればと思います。(大釜)