第2回口頭弁論 2002年7月3日 東京地裁


裁判所から事務連絡(書証提出要求)が出される!
  〜日鉄裁判を支援する会と協力し、GUNGUN第2回公判一日行動〜

 グングン裁判を支援する会では、7月3日第2回公判にあわせて、日本製鉄元徴用工裁判を支援する会と協力して一日行動を行なった。グングンは、2時から厚生労働省前で原告の顔写真を貼った要求パネルを並べてパフォーマンスを展開、4時からはグングン第2回公判、そして夜は、日鉄と合同で「ワールドカップのあとのもう一つの日韓共催/イギョラ!日鉄・グングン集会」を行い、さらに翌4日には靖国神社への申入れを行なった。第1回時に引き続き厚生労働省、靖国神社との交渉を実現し、裁判所内外で解決に向けたアクションが起こされた。


「一歩も二歩も前進だ!」
(大口弁護士)
第2回口頭弁論―裁判所よりの書証提出要求
 
 2時から始まった第2回口頭弁論では、被告日本国からは準備書面T(原告準備書面への回答ともいえぬ回答)、原告の準備書面U(被告準備書面への反論)、V(国・靖国合祀の一体性)が提出された。事実認否をあくまでしようとしない国に対して、原告弁護団は「事実認否をしな被告国の態度はきわめて不誠実で、卑劣である。事実が全ての出発点だ。」(大口弁護士)と強く批判。最後に、中国戦線で父を亡くした李英燦さん、中国戦線に動員され最前線に立たされた李永鎮さんが「侵略戦争を首謀していた戦犯者と一緒に靖国神社に合祀は到底受け入れることのできない」「内鮮一体と言いながら今になって差別するとは背信行為」と訴えた。
 このなかで裁判所(民事19部)から、書証を提出するよう求められた。原告には、日本が朝鮮の外交権を奪った1905年乙巳条約から戦後の靖国合祀通知まで14項目にわたる。被告国が事実認否をしないことが背景にはあるものの、「書証が提出されれば国側も回答せざるを得ない」(弁護団)のだ。大きな前進ということができる。

「父の顔も知らない」李英燦さんの話にしんみり
厚生労働省・靖国神社との交渉報告

 「テーハミング グングン勝利!」の掛け合いコールを背景とした厚生労働省交渉、そして翌日の靖国神社申入れでは、靖国神社への生存者合祀取消しでまた一歩前進した。
 午後2時。厚生労働省前に約25名が集合。支援する会からのアピールのあと、来日している原告がアピール。その後の厚生労働省との交渉では、原告らが「軍国主義の象徴の靖国神社合祀は耐えられない。一日も早く取消しを。特に生存者の合祀などもってのほか」と訴える。厚生労働省は「誤った通知を出したことについて、取消しの手続きを検討したい」と回答。また、靖国神社へ厚生労働省から「間違いであった」旨の文書を出す際に、「遺族が合祀取り消しを強く望んでいる」ことを書き添えていただきたいと申し入れ、厚生労働省側も了解した。遺骨問題では、個別に遺族からの照会(委任状を含む)があれば誠意を持って「日本で保管」「返還済み」「不明」の別について対応することを確認。最後に李英燦さんから「父の顔を見たことがない。軍の記録の中に写真などがないだろうか?」と悲痛な訴えがされ、厚生労働省は「戦友会」にあたるのが近道だろうが、プライバシーの問題があって厚生労働省としてお教えできない」との回答だったが、事務方で何かできないのか今後も実務レベルでのやりとりを続けていくことを確認して交渉を終えた。20歳前後で徴兵・徴用された原告たち。父はそのまま帰ってこなかった。日本政府が誠実に考えるならば行なわなければならないことは多くあるはずだ。
 また翌日行われた、靖国神社との交渉で神社側は生存者合祀について、「皆さんが納得できる方法を考える」と回答した。

第3回公判は9月11日午前11時30分から


 靖国合祀は大きく焦点化されてきた。この問題を日韓共同でさらに大きくしていかなければならない。と同時に、シベリア抑留、BC級戦犯者問題、そして、最も問われなければならないのは日韓併合の不当性とそのもとでの徴兵・徴用の実態を白日の下にさらし、日韓協定で解決済み論を打ち破っていくことである。問題は法廷だけにあるのではない。真に日韓友好を考えるならば、また、「人道的」立場にたつというのであれば、日本政府にできることは多くある。今回来日の原告の「父の写真を探して欲しい」という訴えを真摯に考えるべきである。

原告のみなさんの陳述内容

李永鎭(イ・ヨンジン)さん

 本人は1924年10月17日、忠清北道丹陽郡永春面上里で長男として生まれました。本人の父親は農業を営んでおり、地域に知られる大農で暮らし向きはよいほうでした。
 本人の父親は姉と本人を設け、本人が3歳の時に心臓疾患で病死しました。父親が病死すると母親が生計の責任を負い、もともと財産が多かったため生活状況はさほど大変ではありませんでした。
 本人は清州商業学校(当時5年制で今の高等学校)を卒業して陰城金融組合に入社し、金融業務を担当しました。当時は小学校の児童50〜60名のうち中高等学校に入学する者が6〜7名程度で、本人が生まれた忠州には5年制の高等教育機関がなく、遠く清州にある学校に通うほどだったことから、比較的よい職場に就職することができました。当時、面(地方行政単位の一つ。郡の下、里の上)の公務員の給料が平均15ウォン程度だったのに比べて40ウォン程度受けとっていたほどで、ほかの人たちがうらやむような職場でした。
 1943年3月頃、現在の妻と結婚し、娘を1人設けて円満な家庭を享受して暮らしていたところ、地域の巡査が居住地に徴兵令状を持ってきて入隊すればいろいろと恩恵を受けられると言い、当時の生活ではこれに逆らうと投獄されることを甘受しなければならないため、仕方なく引っ張られていくしかありませんでした。
 徴兵令状を受けると、家族は戦争に参戦することになれば生きて帰ることが難しいと、傷心して皆ひたすら泣いていました。南洋群島で日本軍が苦戦しているという知らせや米軍の爆撃の知らせが伝えられていた時だったため、本人もやはり今回参戦すれば生きて帰ることは難しいだろうと悲痛な心情でした。
 初めの入隊は陰城で約10余名が1945年1月13日、龍山第23部隊に入所し、1週間ほど基礎的な軍事訓練を受けました。同年1月23日、激しい寒さもなか貨物列車に積まれて北に約1週間連れて行かれました。行き先も知らされずに乗っていった貨物列車はなんの防寒施設もなく、床にはかますが敷かれているのみで、私たちはまるで貨物のように扱われました。床に敷かれたかますは寒さをしのぐために互いに引っ張ったり、奪い合ったりしているうちに完全にぼろぼろになってしまいました。移動中、中間地点の駅に停車して握り飯が支給されましたが、おかず一つなくご飯に塩を振りかけただけのひどいありさまでした。生理的欲求(小便や大便)が生じた場合は貨車の扉を少し開けて、後ろで同僚が捕まえてくれた状態で列車の外に出して解決するしかありませんでした。監視員は列車1両に2〜3名ずつ日本軍が担当しており、貨車が走っている間に開城が故郷の人が開城を過ぎる頃に貨車から飛び降りて逃走したこともありました。逃走した人は私たちが開封に到着した1週間後に押送されてきました。雪の降る極寒期に1週間移動したため具合の悪くなる患者も発生しましたが、一切の救急薬も支給されず治療もなく、凍傷患者が続出して本人も指に凍傷を患い苦労しました。それこそ私たちは牛や馬のように輸送されたのです。
 1週間移動して到着したところは中国河南省の開封という地域でした。駅から部隊まで約3キロの距離でしたが、寒い気候で背嚢を担いで移動したため歩いていくのはかなりつらいものでした。年は若かったのですがお腹もすいて気候も寒かったため、その時の苦しみは今でも時おり思い出しています。開封というところは河南省の首都ですが、到着したところは師範学校でした。その師範学校は板の間にじゅうたん1枚もなく、暖炉すらないところでした。寒い気候と荒々しい風が吹き付けるところで4月まで生活しました。
 到着すると基礎的な軍事訓練が続き、鉄道工事訓練(レール設置、枕木運搬、橋梁復旧工事)をしました。そのとき初めて、本人が服務する部隊が戦闘部隊ではなく空襲で破壊された線路補修を専門に担当する労力部隊であることを知りました。鉄道工事をするなかで米軍の空襲によって死ぬ人々や負傷者が続出しました。一緒に行った同僚のうちの1人は空襲によって負傷し、野戦病院に輸送されて別々に帰国しました。
 1945年5月頃から米軍の空襲が激しくなり始め、主に鉄道及び橋梁を爆撃しました。物資や兵力の輸送を遮断するための計画的な空襲でした。私たち部隊員は破壊された鉄道や橋梁の復旧工事現場の各所に配置されました。
 枕木やレールは非常に重く、重労働でした。今でこそ機械を動員していますが、当時はすべて人の力を使って作業をしていたため、作業の重さはかなりのものでした。作業がきついと、レールや枕木を担ぎながら倒れてけがをする人も多く発生します。一日の日課は6時ごろ起床して作業場に移動、空襲が激しいと夜でも作業を続ける日が多くなりました。食事はおかずもひどいもので、農村から来た人たちは空腹に悩まされ、食堂で盗み食いをして捕まり殴られもしました。鉄道工事現場を何箇所か転々として解放され、再び開封部隊に復帰しました。
 部隊長は、軍服務中の給料は郵便貯金に預金し、本国の家族あてに送金されると教えてくれ、服務中はわずか10円も受けたことがなく、私たちは部隊長の言葉を信じていました。しかし、帰国後に調べてみたらわずか1円も送金されていなかった事実を知りました。命令に従わなければ殴打や制裁をひたすら受けることになり、これに耐えられずに逃走する人もいました。逃走途中で捕まった人は途方もない殴打に苦しめられなければならず、霊場に投獄されました。逃走した人たちのなかには光復軍(日本統治地時代に中国大陸で朝鮮独立を目指して抗日闘争を繰り広げた大韓民国臨時政府の軍隊)に投降した人もいました。光復軍が部隊から逃走して光復軍に投降せよとの宣伝活動を展開してもいました。
 1945年8月15日、日本の無条件降伏で解放となりましたが、当時の私たちはなんの知らせを聞くこともできませんでした。次の日ぐらいに将校らがひそひそと話しているのを聞いて戦争が終わったという事実を知りました。日本軍は涙を流し、韓国人は解放の喜びを感じていました。そのときから日本軍は持っていた武器を売り、それらの武器は中国の共産軍に渡りました。終戦後、日本軍は軍紀が乱れ、武器を売って得たお金で酒場でお酒を買って飲んだりもしました。事実上、中国軍が武装解除をしなければなりませんでしたが、中国軍の力が弱かったために、私たちは解放されたものの日本軍の指揮下にあり、まだ自由の身ではありませんでした。
 1945年10月頃、部隊員のうち韓国人が大規模な暴動を起こしました。当時の将校と下士官は日本人で下っ端の兵士は韓国人でしたが、韓国人が将校の幕舎を襲撃するという暴動が起こりました。中国軍(国府軍、蒋介石軍隊)が韓国人と日本人を分離して収容しました。1945年冬、激寒の寒さをテント生活で耐えなければなりませんでした。1945年11月、中国軍が日本軍を武装解除し、やっと中国軍の捕虜生活をすることになりました。この時から韓国人は自治制を実施して投票を行い、中隊長と小隊長を選出しました。中国軍は私たちに1人当たり一日に100元ずつ副食費を与えてくれ、それで野菜や食料類、肉を買って調理して食べもしました。日本軍も私たちと別段変わるところがありませんでしたが、彼らは備蓄していた食糧を持っていたため私たちよりは比較的ましな生活をしていました。
 1945年4月10日、復員令が下り、開封を貨物車で出発し、徐州、南京、蘇州を経由して1945年4月16日、上海に到着し、日華紡織会社の建物に収容されました。同年5月8日、本国送還のため米軍側で船を提供してくれ、V68輸送船で呉淞港を出港して5月11日、釜山港に到着しました。この船には私たちだけでなく、ほかの部隊員たち、現地の同国人など数千名の人が乗っていました。
 船内でコレラ患者が発生して上陸が許可されませんでした。死亡者が続出したので死体に重たい鉄の塊をぶら下げて水葬しました。検疫員が乗ってくると患者たちを隠してコレラはないとだましもしました。そうして同年5月15日、とうとう釜山港への上陸が許可され、そのままみな逃走しましたが、コレラ患者がいたという事実が発覚して捕まりもしました。
 上陸すると1000ウォンの旅費が支給され、これを持って家に帰ることができました。家に着いてみると送金してやると言っていた給料が送金されていたという事実はなく、そのときになって初めて日本軍にだまされていたことを知りました。戦争末期に弾丸を受けるために送り出して人間以下の待遇をし、一銭の給与も支給しなかったことに対して憤りを感じざるを得ませんでした。
 最近、日本の厚生労働省が郵政省を通して本人の未支給賃金と軍事郵便貯金について確認しました。厚生労働省の記録を通して東京法務局に昭和27年4月4日345円が未支給給与金として供託されているという事実を確認し、郵政省の記録を通して軍事郵便貯金000円が預けられているという事実を確認しました。しかし、郵政省では大韓民国の国籍を持つ者は軍事郵便貯金に関する権利については「財産及び請求権に関する問題の解決及び経済協力に関する日本国と大韓民国間の協定」(1965年12月、条約7号)及びこれを基礎に制定された国内法に依拠し、権利が消滅してしまったと弁明しています。
 個人の権利を国家が一方的に消滅させるということはいくら日本国だといえ、とうてい納得できません。私たちが権利を行使しなかったのは韓日関係の特殊性によるもので、私たちが権利を放棄しようという意志を明らかにした事実もなく、そのような意志を私たちに尋ねてきた事実もありません。
 私たちはこの間、日本軍の言葉をひたすら信じて死線を越えて生きて故国に帰ってきましたが、日本は私たちを欺き、未支給賃金が供託されているという事実も、軍事郵便貯金が残っているという事実も私たちに一切知らせることなく、最近になってようやく確認を受けることができるようになりました。私たちがこのような事実を知っていたら、どんな方法を動員しても私たちの権利を救済するべく努力を尽くしたことでしょう。これは国家的な詐欺であり、日本軍を信じて戦争に参戦した私たちに対する背信行為です。
 内鮮一体で同一国民として同等の権利と義務が付与されると宣伝しておきながら、今になって日本軍とかけ離れた差別をし、なんの補償措置も取らないでいることは、はたして正当化できることなのでしょうか?
 裁判長の賢明な判断をお願いいたします。


李英(イ・ヨンチャン)さん

 本人は1936年12月5日、京畿道ヤンピョン郡ヤンピョン面ヤングン里262番地で生まれました。本人の父親は2男2女の次男として、家の中では家長として重責を負っていました。伯父は北海道に移住して暮らし、本人は父親とともに祖母、父親、母親、弟たち2人が1家族を成して生活していました。父親は商売をし、父親所有のバスを持つほどで中産層の生活をしていました。
 正確な時期は記憶していませんが、43年度末頃、徴用された父親が警察署前でトラックに乗って去っていく姿を今でも覚えています。祖母と母が、去っていく父を見送る時に父親の名前を呼びながら涙を流していた姿を記憶しています。
 祖母は「必ず生きて帰ってこなきゃだめだよ」と言いつづけ、幼心に、死にに行くのかなと思いました。面(地方行政単位の一つ。里の上、郡の下)から一緒に行った人たちがトラック1台分で20余人ほどだったと思います。
 父親とは徴用された後、手紙のやりとりもいくらかあり、日本から毛布や履物を送ってきたことも記憶しています。父親が買って直接送ってきたと思います。
 ある日、学校に行く途中で父親の同僚が来て、父親のものだと言って白い風呂敷で包まれた箱を手渡し、本人はその白い箱を抱えて涙を流しながら家に帰ったことを記憶しています。その後、家族が父親の遺品をどのように処理したかはわかりません。以後、正式に日本政府から死亡通知を受けた事実はありません。
 祖母はいつも父親をしのびながら暮らし、60年代に鬱火病(怒りを抑えすぎて起こる病気)でなくなりました。母は本人が幼いときに再婚し、本人や弟たちの面倒を見る人がなく、幼い頃から新聞配達をしながら家族の生計をまかなわなくてはなりませんでした。
 勉強しようという一念で中学校を夜間学校で入学しましたが、朝鮮戦争が勃発して16歳の年で学徒兵として強制徴用され、参戦することになりました。軍で足を負傷して名誉除隊したところ、弟たちは散り散りばらばらで行方不明になった状態でした。風の便りなどをたどって調べて弟たちを探し当て、再び家族が一つになって暮らすことになりました。軍でも勉強するために毛布をかぶってろうそくを灯し、目をこらして勉強をしたりもしました。
 1974年12月、遺骨が送還されてくるとき、また再び父親の遺骸が戻ってきました。当時、釜山にまつっておいたので、今は天安市の「望郷の丘」に安らかに葬られています。2000年度8月、日本の厚生省から正確な死亡事実と未支給賃金の供託記録を確認しました。
 本人の娘が在米韓国人と結婚してアメリカに移民して暮らすことになり、本人も1989年度にアメリカに移住し、アメリカの市民権を得て現在まで生活しています。
 今でも胸の痛むことは、両親のない悲しみの深さもさることながら、弟たちにきちんと教育を受けさせてあげられなかったことが、今でも(心の痛み)として残っています。ひたすら生き残るためにお金を稼がなくてはならず、あまりにも困難な環境だったために弟たちの面倒を見てやることができなかったことが、今でも罪責感として残っています。家族をみな失って味わわなければならなかったその苦しみ、そのつらい現実をはたして日本は知っているのか、家族がみな苦しみの歳月に追い込まれた被害に対して日本は責任を感じているのか追及しようと思います。
 本人の父親が靖国神社に合祀されています。しかし、本人には合祀の経緯についてなんの知らせもありませんでした。本人の父親を、侵略戦争を主謀していた戦犯者と一緒に靖国神社に合祀することはとうてい受け入れることのできない措置であり、日本政府は遺族の同意も求めないまま合祀した責任を負うべきです。
 日本は自国の戦争のために犠牲を払った日本人に対しては行き過ぎではないかと思われるほどの配慮をはらってきました。しかし、同じように日本国のために戦争で犠牲になった韓国人犠牲者に対してはなんの措置も行わずにいます。特に、命をささげて働いた代価さえもそっくり供託したまま支給しないでいることは道義的にもとうてい受け入れることのできない問題であり、国際的な批難を避けられないのだということに気づくべきです。
 私たちは今の生活が苦しくて同情を求めるためにここに来たのではありません。日本が勝手に行った侵略戦争によって無辜の韓国人を強制的に戦場に送り出し、その犠牲によって家族は一生を苦しみの中で生きてこなければならなかった事実について、日本政府はきちんとわかっているのか問おうというものです。私たち家族が感じていることは、日本政府は一抹の反省も、責任について認めることもせずに、依然として韓国人に対する差別的な措置を改善していないことであり、このような措置が改善されない限り、私たちは命が絶える時まで闘っていきます。私たちの後裔にもこのような事実を知らせ、この問題が解決するその日まで戦いつづけていきます。