第1回口頭弁論 2002年4月26日 東京地裁103号法廷


「父を、青春を、全てを奪われた」3人の原告が怒りの陳述!

 26日午後2時30分より、第1回口頭弁論が開始されました。東京地裁の103号法廷(大法廷)はほぼ一杯。政府側の答弁書、原告側からの準備書面の提出確認後、来日した原告3人の意見陳述が行なわれました。原告の意見陳述はこの裁判の出発点だ。
 最初に、陳述にたった李洛鎮(イ・ナクジン)さんは、父親をフィリピンで日本敗戦後の9月20日に亡くしました。未だ遺骨はもどっていない。しかし、靖国神社にだけは合祀されているという。「靖国合祀は、我が国ではうしろ指をさされる『日本軍人』の家族として生きなければならない象徴」「人間として遺骨の返還は当然のことではないか」と机をたたき訴えました。
 続いて陳述に立ったのは、金幸珍(キム・ヘンジン)さん。金さんは、1941年に強制的に陸軍の入隊させられ、1942年激戦地のソロモン、ブーゲンビルなどに追いやられた。「日帝の占有のために短い青春を強奪され、謝罪も補償もなく、現在もつらい過去の傷を癒すことが出来ない」「韓国の青少年は日本のために忠誠をつくすことを強要され、その裏で日本は数多くの若い魂と遺骸を南方戦線に捨てるようなことをしたのです」と訴えました。
 最後に陳述にたった李熙子(イ・ヒジャ)さんは、「父を奪われた。友人に調べてもらった結果、1944年6月中国戦線で戦病死したことがわかった」「昨年8月に合祀取消しを求めて靖国神社を訪ねたが、右翼の光景を見て、この神社に父が祀られていることに何よりも胸が痛んだ」「父を、全てを奪われたこの60年の苦しみから提訴に踏み切った」と切々と訴えました。
 3人の原告の訴えは、本提訴の象徴だ。父を、青春を、全てを奪われ、にもかかわらず、日本政府は、謝罪も補償もしないばかりでなく、遺族には一片の通知もせず、靖国神社にだけは合祀通知をした。出発点は引かれました。7月3日の第2回公判へ向けて、原告との結びつきを一層と強め、日本政府を追い詰めていこう!

厚生労働省交渉
「われわれの痛みを知って欲しい!」遺骨、靖国問題で回答を約束

 第1回口頭弁論を前にした26日の午前、厚生労働省交渉を行いました。GUNGUN裁判がかかえる問題のほとんどが厚生労働省に関係する問題のためです。要請相手は、厚生労働省の社会・援護局。最初に事務局より、@遺骨の調査・返還、A靖国神社合祀問題、B未払い賃金問題、C死亡通知の未通知などの問題について、要請内容を説明。約1時間という限られた時間の中で、遺骨、靖国合祀問題が中心となりました。
 遺骨問題では「未返還の遺骨については返還したいと考えている」との表明にとどまるものでした。遺骨調査のためのDNA鑑定の予算1300万円が来年度予算に計上されているが、実施するための検討会費であるという。ここでも旧植民地出身被害者の積極的調査の意向は示されませんでした。
 靖国合祀問題では、「政府は情報提供を行政サービスとして行なってきただけ。プライバシーの問題があり、(靖国への通知について)今は行なっていない」という。しかし、政府は戦後、政教分離の憲法制定以降も靖国神社からの「祭神名票」に記載・回答し、厚生省管理の名簿に「合祀済」の印を押し続けていたのだ。
 最終的に、厚生労働省から@遺骨の返還について、日韓政府の間で何らかの確認があったのか、A遺骨の調査のためのDNA鑑定について、計上された予算の内容について、B靖国神社へ合祀済みという押印は戦後も行なわれていたのか、C日本人生存者の場合の取り扱いについてなどについて、回答を約束させました。
 最後に原告から、「今なお後遺症に苦しむ我々の痛みを知って欲しい。日本政府が人道的に対処すれば提訴の必要はなかった。」(李熙子さん)、「今はもう21世紀。時代の変化に合せて日本政府の姿勢も変えるべきだ。」(李洛鎮さん)と訴えました。
 被害者は高齢であり、裁判と並行して対政府、靖国神社交渉を行なっていく必要があります。交渉は今後に引き継がれました。今後とも対政府交渉を強めていこう!

靖国神社と交渉
生存者合祀の事実上取り消しを勝ち取る!

 公判翌日27日の靖国神社と交渉しました。応対したのは前日大阪でのアジア訴訟に出席していた坂総務課長。こちらは大口弁護士、金景錫さん、李煕子さんら原告団と支援の20数名。全員が社務所の応接室まで入ることができ(押し入り)ました。昨年8月15日に申し入れに来たときには大鳥居に右翼の人垣ができて「反日朝鮮人帰れ」というひどい怒号のもと正面から入れず、裏から代表者が入って数分話をしたことを考えると、今回の対応は意外な丁寧さでした。
 やりとりは以下のとおり。まず韓国における靖国合祀の意味について説明し、合祀を取り下げるよう求めました。(靖は靖国・GはGUNGUN原告及び関係者)
(靖)「返してほしいというのは、具体的に何をですか?」
(G)「魂だ。」「特に生存者はもってのほかだ。2人のうち一人は現在も生きている。二重三重の屈辱だ。」
(靖)「よりしろに宿っている霊魂なので、○○の御霊が宿っているという控えから削除します。名前を消します。」「日本人の生存者でも霊魂は宿っていないわけで、簿冊からは消します。生存しているということは、もともと魂が来ていないということです。」「生存しているということが証明できる住民票やその後亡くなったのであれば除籍簿があれば削除します。」
(G)「このことに関して公的に当事者に謝罪表明していただきたい。」「どうしてこういうことになったのか?」「一番最近の名簿はいつか?」
(靖)「こういう方が合祀候補ですよ、と厚生省から名簿がきます。こちらでは選択する能力がないので、ほぼそのまま合祀します。」「1985年(S60年)。それ以降は戦友会からの通知に基づいて合祀しています。中曽根首相の参拝で切れました。」
(G)「合祀の基準は何か」
(靖)「天皇のために死んだからではなく、国家の命令のために戦争で命を落とした人を合祀するという考え方です。」「靖国神社は厚生省の判断(名簿)に従っているだけです。いつ亡くなったとかこちらでは全然わからないので、厚生省からきた資料に基づくしかないのです。」
と、生存者合祀については、あっさりと事実上の取り下げを認めました。
 前日の厚生労働省との交渉で、国は名簿を「単に行政サービスとして靖国神社に情報提供しただけ」と語っています。また名簿の提供は「1977年頃まで」と厚生省は言っており靖国と食い違います。単に情報提供と開き直る国と、その名簿をそのまま100%合祀してきた靖国神社。今後両者をさらに追及し、全ての合祀取り下げを勝ち取る決意です。

原告のみなさんの陳述内容

李熙子(イ・ヒジャ)さん 

  本人は1943年1月3目、京畿道江華郡ソンヘ面ソルジョン里519番地で、父イ・サヒョンと母ハン・オクファの間に生まれました。その当時、祖父、祖母、父、母、おじ3人、おば3人、そして本人がともに暮らしており、農業を営んでおりました。
 その当時は太平洋戦争が勃発して戦争が盛んなときだったので、ある年齢になると徴用を避けることはできないとのことでした。家族から1人は必ず徴用されなくてはならず、父が令状を受けることになりました。父も徴用をのがれようと、昼間は家にいられず、隠れまわって戦争が終わるのをひたすら待っていましたが、これ以上避けることができなくなり、姿を隠しているのも窮屈だから早く徴用から帰ってきて楽な気持ちで家庭を引っ張っていかねばと徴用されていったのでした。
 父は1944年に徴用されましたが、その当時は北海道に行くと聞きました。父は徴用される日に、母と本人を母方の祖母と一緒に暮らすよう母の実家に連れていき、出発しました。母方の祖母は髪をとかしてくれながら、父は日本に徴用されたと言い、父は闊達な性格で情が深く、壮健な体に力もあり、祖母をよく手伝ってくれたなど、父に関するすべてのことをいつも語ってくれました。
 父は母の実家に手紙を送り、中国の戦地にいるが戦争がいつ終わるかわからない、終わったら帰るという、1944年の冬に来た手紙が最後になったとのことです。
 解放後、父は戻らず、母方の祖母は遠い野原を見つめて今か今かと父の帰りを待ちました。祖母と母は時が流れても父が帰ってこないので、それぞれ父の消息を聞くために、評判のムーダン(巫女)を訪ねてまわりました。周りは父が帰らないのは死んだからだと言っていました。父の死亡を目撃したということをだれからも聞いたことがありませんでしたし、死亡通知もなかったので、父の死を信じることができませんでした。
 父は掃ってきませんでしたが、そのまま母の実家で過ごし、周りの親戚や近所の人たちは母に再婚をすすめました。ある冬の日、近所のおばさんたちが集まって部屋の中に座り、本人を指差して「娘1人を当てにせずに再婚しなさい」と言い、幼心にあまりにもくやしい気持ちになりました。母は父の実家で本人と2人きりで暮らせる家でも用意してくれたら再婚せずに生きていくと言いましたが、父の実家では知らぬふりをしたのでとても傷ついて、帰らぬ父を恨み、本人が10歳になる年に再婚しました。
 母は本人を連れて再婚すれば生活や教育の間題が解決するだろうと考えたのでした。母は以前とは異なり田畑で仕事をするばかりで、新しい父ともしばしば言い争っていました。完全に変わった生活環境は幼い本人に大きな衝撃を与え、母方の祖母がいつも話してくれた父と新しい父が比較されていっそうやるせない心情でした。中学校に進学したかったのですが、小学校の卒業生のうち中学校に上がる友達が一人もなく、母は本人を進学させたかったのですが、新しい父がそれには関心ももたなかったので、それはできなかったとのことです。
 母は再婚して心が病み、いつも神経性胃炎に苦しみ、確認されていない父の死亡申告をしたことでいつも罪悪感にさいなまされながら暮らしてき、涙の歳月を過ごしました。
 70年代に釜山に遺骨があるというのでおじが参席しましたが、母と本人がいるという考えから遺骨を持ちかえらなかったといいます。江華郡庁の職員が家に父の遺骨を持ってきてくれました。日本が私たちの家庭を完全に根元から揺り動かしておき、私たち母娘はあまりにも長い苦痛の歳月を送らざるをえませんでした。
 89年度に太平洋戦争犠牲者遺族会という団体を知り、子として父の名誉回復と正確な記録を探すべく、懸命に活動をしました。活動しながら知り会いになった日本人に父に関する記録を探してくれるようお願いし、1996年5月に確かな記録を日本の防衛庁から受け取りました。記録によると、1944年2月19目に家を発った父は陸軍軍属としてi944年3月5日にヨンサン駅を出発して中国に派遣され、特設建築勤務101中隊に勤務して同年6月11目広西省第180兵站病院で死亡したと記録されていました。未支給の給与金として1480円が供託されていました。さらに驚くべき事実は、留守名簿を見ると、父の名簿が日本の靖国神杜に合祀されているというのです。
 父親が靖国神祉に合祀されているということは、いまだに父親の霊魂が植民地支配を受けていることだと思います。靖国合祀以前に被害者の遺族にそのような事実を知らせなかったことについてはとうてい納得できません。これに対して日木政府が訴訟になる前に周辺国侵賂について反省するというのなら、遺族の要請を受け入れて合祀を撤回するべきだということは当然であるにもかわらず、それをしないでいるため訴訟を提起することになったのです。
 昨年8月15目に合祀取り下げを要請するために靖国神杜を訪ねました。しかし日本の右翼たちが車で人を動員して阻止する光景を見て、父の霊魂が靖国神祉に祭られていることに子としてなによりも胸が痛みました。
 靖国神仕を訪ねて合祀取り下げの要請書を渡しましたが、靖国側からは「お父さんはきちんと祭られており、つねに追慕している。すべての人々が合祀を誇りに思っている」という回答がありました。私は去る8月15日、靖国神杜の前での光景は少しも神聖とは思えず、合祀もまったく誇りに思っていません。
 日本の小泉首相は昨年8月に靖国神杜を公式参拝し、これに反発して違憲訴訟を提訴した韓国の被害者と日本の良心勢力を「おかしな人たち」と罵倒しました。日本の2重の姿をそのまま見ることができた事件でした。
 良心的な日本人が韓国人被害者を助けるために努力する姿を見ながら、温かい日本人だと感じつつも日本を憎むしかない現実がまた一つの苦しみとして迫ってきました。いつかは許さなくてはならないと思っていますが、いまの日本政府の態度を見るとまだその時期ではないようです。
 戦後補償運動をしながら、生存者の方にお会いするたびに、自分の両親にできなかった子としての役目をはたしているのだという気持ちをもつようになりました。これから年をとって両親のもとに行ったとしても、若いときに日本によって命をおとさざるをえなかった父のために子として潔く、堂々と闘った子になれるよう裁判長が正しい判決を下してくださることをお願い申し上げます。
 この地球上に再びこのような悲しい出来事があってはならないと切実に感じつつ、本法廷で強く訴えるしだいです。


李洛鎭(イ・ナジン)さん

尊敬する裁判長様
 日本帝国は、聖なる先祖の祭事用品まで軍需品として大砲や戦艦を造るがために強奪し、これに飽き足らず人まで強制徴集しました。
 一年中苦労して作った作物、食料まで強制供出され、祭祀に使う米もなく、年老いた老人達は涙を流しました。私の父、李福圭(日本名 香山文雄)は、1945年9月20日フィリピンのミンダナオ島で戦死しました。ちょうどそのとき国内では、日本から解放された喜びで浮き足立つていましたが、戦地での日本軍部は敗戦の事実を隠し、密林の奥深く兵力を投入し、結局は銃による傷で命を落としました。戦争は終わりましたが、父は帰らず今日か明日かとあせる家族には戦死通報一つ届かず、今日まで何らの便りもありません。後でわかったことですが、その後彼らは誰の同意も得ることなく、父を靖国神杜に祀りました。誰の同意があってこんな理不尽なことをしたのでしょうか?
 靖国とは日本人にとっては大きな栄光かも知れませんが、我々にとっては願ってもいない所に強制連行され、その上我が国ではうしろ指差される「日本軍人」の家族として生きなければならない象徴です。これは死んでなお靖国に祀られ、全国民の非難を受けなければならないことを示しているのです。
 当時私の家族は、祖母と視覚障害の叔父ら8名の大家族でした。その責任をとる大黒柱の長男(わが国では長男は父の後継ぎで家のあらゆることに責任があり家族達の頼りになる存在)が戦場に狩り出されたことによって生活が苦しく、日に二食それも草の根ととうもろこしの飯でようやく延命したのです。長男のまた長男である私は、栄養失調でマラリヤや脱腸等で随分苦労しました。弟は夜盲症で長い間苦労しました。幼年期の人一倍の苦労の原因は、父が日本帝国に強制連行された家計喪失でありました。それに23歳の若き花のごとき新妻は今、腰が曲がり、杖にすがり、ようやく歩く状態であるが、それでも夫が帰る日を信じて今でも待っています。50年もの夫の居ない一人暮らしの苫労は如何ほどだったでしょうか。
 日本政府は弁明と詭弁で真実を隠そうとしないで、ドイツがユダヤに対してとった姿勢と同じように認めるべきははっきり認めて、返すべきものはきちんと返して下さい。
 我々韓国人が靖国に祀られるのは「恥」であり、子々孫々まで拭うことのできない「侮辱」であります。私達の後世の子孫に祖先が靖国に合祀されていることをどう説明すればよいでしょうか。靖国合祀の取下げと戦後補償を求めます。

金幸珍(キム・ヘンジン)さん

  本人は1922年6月8日、全羅南道ヨンナム郡ヨンナム面トンム里40番地で生まれました。その当時、父、母、兄、弟とともに農業を営んで生計を立て、生活は中産層程度でこれといった困難もなく生活しておりました。
 1941年8月に警察官が令状を持ってきて、軍に行けばいろいろと恩恵を蒙ることができると言い、入隊することになりました。ヨンナム面では1人令状を受け、近所の住民たちに歓送されて汽車に乗り、ヨンサンに行きました。
 ヨンサン歩兵22連隊で6か月間軍事訓練を受け、訓練が終わると帰宅措置となり家に帰りました。1年も経たない1942年3月頃に再び令状が出て、また郡庁で歓送式を受けて京釜線の列車に乗り釜山市赤崎に着きました。総7420部隊に入隊して高射砲部隊で6か月訓練を受け、照空隊で3か月訓練を受けました。
 1942年11月頃に釜山第1埠頭に移り、輸送船5隻に部隊員が分かれて乗り、日本の佐世保軍港に帰港して再び6隻の輸送船と合流して11隻が南方に行きました。行く途中で3隻は魚雷艇の攻撃を受けて沈没し、8隻がソロモンに行き、そのうち3隻は違う島に行きました。5隻がニューギニア諸島のある地域に上陸しようとしたとき、米軍の陸海空軍の砲撃と島にいる米軍の反撃にあい、5日間昼夜なく戦い、数百名の死亡者が発生しました。そのとき発生した死亡者の処理をすることができず後退命令が下され、ブーゲンビル島に後退しました。
 約3日後、赴任地区に上陸して毎日米軍と戦闘しながら終戦までそこに駐屯していました。その島では米軍とオーストラリア軍、日本軍が分散して駐屯しており、1944年1月頃から補給はまったくなされず、通信も途絶えました。
 8軍師団司令部とも連絡が断たれるほど極度に悪化した状態で、食糧がなく現地で魚をとったり蛇やトカゲなどもとったりして草を採取したり木の根を掘って食べながら過ごしました。部隊員に命じて海の水で塩を作って塩分を補充したり、不発弾の爆弾を分解して硫黄をとって簡易ダイナマイトを作って爆破させて魚類をとりました。
 24時間米軍の飛行機が日本軍を監視するために上空をつねに偵察していました。行動の制約を多く受けたために軍事行動にかなりの困難を来たし、特に本人の部隊は高射砲部隊だったのでいつも待機状態でなくてはなりませんでした。高射砲の弾道が古びてくると撃っても2,000メートルも飛ばずに上空で爆裂して米軍に部隊の位置が発見されるので、砲は使うことができず、ひたすら待機しなくてはなりませんでした。
 軍事郵便はありましたが、補給が断たれたため手紙は送ることも受けることもできず、月給も一銭も受けとれませんでした。
 解放の知らせは1946年1月に米軍の飛行機から通信弾が落ちて知り、通信弾の中に武装解除せよとの通知書がありました。8軍司令部の指示で1946年2月、武装解除になりました。米軍では各部隊員を隔離して収容し、一日の補給がパン2個、牛乳2本ずつ与えられ、約1か月後に日本軍病院船「氷川丸」にインドネシアなどから引き揚げてきた引揚者たち(台湾人が多かった)と同乗し、台湾を経由して釜山港に入港しました。韓国の引揚者は30余名、軍人はl1名、釜山港に上陸しました。
 家に帰つてから戦争の後遺症でインチョン道立病院で1年ほど療養し、鉄道警察学校の助手として生活していました。
 本人は27歳になった年に結婚し、2男2女を得ました。結婚して自営業をして、その後新聞杜に20年ほど勤めました。定年退職して現在はインチョン広域市チュン区老人会で社会奉仕をしています。
 若い年に日本軍に強制徴兵されて負わされた苦痛と、最前線でお金についてはいっさい口にすることすらできず、切迫した状況で服務しながら終戦まで受け取ることができなかった未支給の賃金などに対する正当な補償を求めます。
 日帝の強制的な占有のために短い青春が強奪されたように、敗戦後もいっさいの謝罪や補償もなされていません。それにより韓国の被害者はいま現在もつらい過去の傷を癒すことができない状況にあります。
 韓国の青少年は日本のために忠誠をつくすことを強要され、その裏で日本は数多くの若い魂と遺骸を南方戦線に捨てるようなことをしたのです。日本人の参戦者に対しては年給を支給しながら韓国出身の退役軍人に対してはなぜなんの補償もしていないのでしようか。
 太平洋戦争当時、ドイツは第三国の被害に対して補償をしました。第二次世界大戦の戦犯である日本はなぜ現在も韓国人被害者に対して収拾や解明をしないでいるのですか。
 日本のために命をかけて闘えと言った天皇はなぜ口を閉ざしているのでしょうか。日本国民と同じだという内鮮一体を叫び、日本の嫡子としていた事実を忘れているのですか。
 日本のために参戦した韓国人はいま高齢で余生もわずかです。いつまで未解決の事件を引きずっていこうとするのでしょうか。これに対する日本政府のこたえを法廷で問おうと思います。