証言者 白貴禮(ペックィレ)
犠牲者 白従基(ペックゾンギ)
関係 父親


 私は1939年8月19日全羅北道(チョンラブット)沃溝郡(オックグン)で生まれました。祖父、祖母、父、母、叔父三人と一緒に農業をしながら暮らしていましたが、まあまあの暮らし向きでした。
 父は長男でした。私が3歳だった頃、父と大叔父が共に引かれて行ったのです。同じ村で数人が引かれて行き、後で帰って来ましたが、父と大叔父だけ帰えられなかったです。親族たちは父に対する話をしなかったし、また幼かった私には父に対する記憶がありません。
 後ほど周辺の大人たちに聞いた話では、父から手紙が送られたが、それには父が南洋群島で仕事をしていると書かれていたそうです。どのような仕事をしていたかは正確に分かりません。朝鮮が解放しても父は帰って来なかったです。帰りのときに乗った船が破船して亡くなったといううわさを聞いたこともありました。以降も死亡通知は来なかったですが、朝鮮戦争の後も父が帰ってこないので、親族たちは父が1969年8月26日家で亡くなったと申告しました。戦死通知書や遺骸もなかったですが、戸籍の整理をしなければならなかったため、仕方ありませんでした。
 父がいない心の空席は祖父や叔父が代わりに満たしてくれましたが、父に対する懐かしさや一人で生きる母の苦しみを減らすことまではできませんでした。母はご自分が21歳のとき夫が徴用され、大家族の長男の嫁として一人で全部家事のやりくりをしていかなければならなかったので、とてもしんどかったでしょう。若い年に一人になり、一人の娘だけを信じて、大家族の家事をしていました。そのような母がかわいそうだったのか、大叔母(父とともに引かれて行った大叔父の妻)が母の再婚を薦めました。結局母は私が10歳になった時再婚し、私は祖母のおかげで育ちました。
 祖父、祖母、叔父、叔母など大人たちがいましたが、親に対する懐かしさはいつも胸の中に固まってありました。父は生死の確認もできなく、母まで再婚をしてから私は孤児のような立場になりました。家は貧しくはなかったですが、いとこ弟が高校、大学まで通う間に私は学校をまともに通うことはできず、小学校を卒業してから私は年下のいとこの世話を全部しなければならなかったです。友人と付き合う時間もなく、家事をしなければなりませんでした。父がいたら私も親の暖かい愛情を受けて育ったはずでしょうが、父がいないという悲しみを骨に凍みるほど感じながら幼年時代をすごしました。
 23歳になった時、祖母は苦労している私がかわいそうだったのか私に嫁入りはどうかと尋ねました。私はいくら貧しくても、ソウルに行こうと決心し、結婚しました。
 もう私も年を取って子供も育ててみたら親を懐かしむ気持ちが募り、子供としてやるべきことをしようと決心しました。父の名誉回復のために積極的に努力しようと被害者団体に加入して活動しました。そうしているうちに政府記録保存所(現在、国家記録院)で父の記録を見つけました。資料には父が海軍軍属で1944年8月8日ファラオで戦死したこと、東京法務国に8,390円が供託されていることが記載されていました。
 父の記録を確認してからは、父のためにより積極的に活動すべきだと考えました。それで2001年から日本政府を相手に父さんの名前を靖国から撤廃しようと要求する軍人軍属裁判の原告として参加しています。
 子供として父のためにできることが何があるでしょうか。日本政府と靖国神社が家族も知らせず日本という名前で強制的に合祀した父の名前を撤廃することが子供としての義務ですし、残りの私の人生の宿題です。誰がなんと言おうと当たり前にすべきことです。
 日本政府と靖国は本当に恥ずかしいことをしています。誤りを悟らず、恥を知らなければ、同じ誤りを再び犯します。このまま日本が誤りを知らず進むなら、日本は再び後悔するでしょう。
 自然のできごとで苦痛があるのは仕方ない問題ですが、人が作った痛みは、互いに配慮し、理解し合えば、十分なくせます。どうかこれ以上被害者と遺族の心に傷を与えず、問題を解決するよう求めます。本当に心痛い家族の切実な要求です。これからどれくらい苦しまなければ、私の要求が認められるか答えてほしいです。