証言者 朴南順(パク・ナンスン)
犠牲者 朴滿秀(パク・マンス)
関係 父親


 私は1943年2月8日全羅北道南原郡王峙面廣峙里で生まれました。父親は1920年3月2日生まれで4兄弟の中長男でした。家族は農業をやってました。作業員を雇うほどだったのであんまり厳しい生活ではなかったそうです。しかし父親が徴用されてからは伯父たちもほかの職場に通っていたし働ける人がいなくて経済的に大変だったそうです。
 父親は1942年11月22日南洋群島に徴用されました。その時父親は南原郡の郵便局で働いていましたが、しばらく家に帰っている間に「日本の野郎たちが連れて行った」と祖母はいつも話しました。母親が私を妊娠して9ヶ月目ごろのことでした。
 今も南原にいる伯父の話によるとたまに南洋群島にいると父親から手紙が来たそうです。「あんまりにも暑くて服を着れない。ふんどし一つで一週間を我慢する。」と手紙に書いていてふんどしと薬を一緒に送ったと言いながら伯父が泣いたこともあります。
 後で父親の記録を探してみたら1944年南洋群島で亡くなったそうです。戦死の通知書をもらったかどうかは分かりませんが、解放の前に亡くなったのを家族は知っていました。たよりを聞いて祖母は飲み食いを一切しないで何日間何も言わずにただ泣いたし、母親も失意したままだったので、家族みんなが凍ったような様子だったそうです。そして私が二歳になったごろ母親は再婚しました。
 最初息子が死んだと聞いた時は泣かなかった祖父が、母親が再婚した時は泣きわめいたそうです。義理の娘が再婚することをみて息子の死がまことに感じられたのか、その状況が悲しかったのかはよく分かりません。
 祖母は亡くなるまで表門を閉まらず閉めずに寝ました。息子の死を聞いてはいましたが、自分の目では見てないからといって毎日毎日待っていました。毎年祭司を何回も行いました。父親の誕生日にも、徴用された日も、祖母の心が苦しい時も祭司をしました。昔には一回祭司をするのが大変だったので、義理の姉たちとよく喧嘩することになりました。義理の姉たちの立場では祖母のそんな行動が理解しにくかっただろうと思います。
 私はその時小さかったし、祖母と祖父が面倒を見てくれたので母親と父親gあいないことをあんまり実感してはいなかったです。しかし今考えてみるとどんなにオ祖母と祖父がよくしてくれても足りないところがありました。人に「親がいないからだ」と言われたくなくていつも、どこにいても言行に気をつけて来た気がします。
 そして私は21歳に結婚し、南原からソウルに引っ越ししました。祖父は私は14歳になった時なくなったので、私が結婚した時南原には祖母一人だけ残ることになりました。そして私が結婚した次の年から祖母は中風で長く苦労し、私が29歳になったごろに亡くなりました。
 祖父が早くもなくなり、私が結婚してからすぐに祖母も病気になったので私は父親についてはあんまり聞けなかったです。あんまりにも忙しい人生だったので60歳を越えてから同じ立場の被害者たちと一緒に活動し始めたです。遅くなりましたが父親の娘として頑張りたいと思います。
 私も歳を取り、子供を生みましたが、その息子が24歳になったごろ父親のことを思い出すと、「父親はあの歳で亡くなったんだ。あんな芳年で徴用されたんだ」とあんまりも悲しくて父親のことが可哀想でした。
 今考えてみれば祖母と祖父がそんなにも早く亡くなったのは長男が徴用され、亡くなったからかも知れないし、中風で倒れてから亡くなるまでも表門を閉められずに息子を待っていた祖母の姿は忘れられません。
 何十年を父親のいない寂しさの中で過ごし、遅くはなりましたが父親がどうやって徴用され、どうやって亡くなったのか確認したかったです。そしてどうしても遺骨だけは探して穏やかな所に安置したいのが私の願いです。これこそが子供としての本分であり、義務であると思います。そして私の父親が靖国神社という所に合祀されたそうですがどういうことか今回私の身をもって確かめたいと思います。そしてどうすればいいか考え、もし父親が靖国神社に合祀されたのが事実ならそれを取り消すために努力するつもりです。