証言者 南英珠(ナム・ヨンジュ)
犠牲者 南大鉉(ナム・テヒョン)
関係   兄


裕福な環境で育った幼い時期

 私は1939年2月24日慶尚南道(キョンサンナムド)宣寧郡(ウリョングン)正谷面(チョンゴクミョン)上黄里(サンファンリ)で3男4女の末っ子に生まれました。上の兄の二人ははしかで幼かった時死んだといいます。幼い頃、住んでいた町は南(ナム)氏が百余家集まって住む南氏の村でした。私どもは8代宗家で家勢が相当だったため、町内では、私たちの土地踏まずには通えないという言葉があるほどでした。
 家は農作業をしていましたが、下人がいて実際家族が仕事をすることはありませんでした。祖父は漢学を学び、町の書堂(塾)の先生をしていましたが、非常に厳しく、父が出かけるときと帰るとき、いつも庭で、祖父に礼をしていた記憶があります。
 祖父はあまりにも漢学を重視し、また直接書堂で漢学を教えられていたことから、孫たちを新学校に送ろうとしませんでした。それで、父が祖父にこっそりと、子供たちを新学校に行かせて、祖父に見つけられ、怒られたりしました。兄は8代宗家の子孫の一人息子として家門にいなくてはならない責任を負った息子でした。

徴兵に引かれて行った兄

 1942年慶尚南道(キョンサンナムド)宣寧郡(ウリョングン)で徴兵に引かれて行った一番上の兄は1923年生まれで、私より16才上でした。引かれて行った時、年齢は20才でした。兄が二人も死んだし、事実上一番上の兄しかいませんでした。それで引かれて行く前に、急に結婚させましたが子供はできなかったのです。義理の姉は1950年まで一緒に住んでいましたが、その後、実家に送りかえされたといいます。
 お父さんは本当に情が深く、優しい方でした。解放になっても兄からは、便りがなく、死亡通知書も受けることはできませんでした。後になって、戸籍を見たところ、兄の死亡申告がなされているので、どうしたことかと尋ねたところ、父は「若い嫁をそのまま年をとらせるのは、申し訳ない」ので、義理の姉を実家に送ろうと、生死の分からない兄を家で死亡したものとして直接申告をしたといいました。
 昔に住んでいた家はものすごく大きかったのですが、一番上の兄が床に腰掛けて手オルガンを演奏した姿が思い出します。晋州(チンジュシ)で高等学校まで通った兄は大事な息子だったため、徴兵に行く前まで、学校の勉強のほかに、望むこと全部してあげたという話を聞いたことがあります。
 兄は高等学校を卒業してすぐ徴兵に引かれて行きましたが、町内の友人2人といっしょに引かれて行きました。その日は徴集されていく3人を歓送するために町中が壮行旗で覆い尽くされていました。大事な息子が戦場に引かれて行くから、母は病気になり、家は皆で大騷ぎとなりました。姉たちと私は幼かったのですが、とても恐ろしくてどうすることもできず、 静かに過ごしていたことを思い出します。

徴兵で長孫を奪われた家族の悲しみ

 大事な孫を死地と変わらない戦場に送りだした問題のために、その後も息子を守ることができなかった父は祖父や周辺の大人たちから何度も侮辱を受け、罪人のように過ごしました。自分の子供を戦場に送りだした父の心も心でしょうが、家の立場では、一人息子の長孫がいなくなったという大きな問題があったためです。その後、兄から南洋群島にいるという手紙が何度かきたといいますが、朝鮮戦争中に家が焼けて、手紙はなくなったし、今は兄の写真一枚だけが残っています。
 兄が引かれて行った後に、父と母、双子の姉と私だけ、町で小さい商店をしながら住んだことがあります。兄が徴兵に出て行き、病床に就いていた母は解放後に一緒に引かれれて行った二人が帰ってきた後にも兄が帰ってこないと、結局食事も出来ずに病み、1946年頃に亡くなりました。
 その当時私が学校から帰ってくると、母は台所に行ってお酒を持ってこいといい、酒が何かも分からなかった私は母の指示の通りに持って行ったりしました。兄を失った悲しみをお酒だけに頼り、生きていたようです。後に大きくてなって考えてみると、お酒が毒薬とも知らずに持って差し上げたんだなと思う気がしたりします。分別なくお酒の手伝いをしたことを考えると不孝な子供だったなと後悔したりします。
 父は兄の消息をつかむために、どこの誰が軍隊から帰ってきたということを聞けば、うわさをたよりに捜して尋ね歩きました。密陽(ミリャン)など遠く離れたところまで車に乗って行き、何日もいてから帰ってきたりしました。どの家でも子供は大事かもしれないが、今考えても少しやりすぎのように思えるほど、大変苦労して兄の消息を探してまわり8ました。結局父は、いくらも経たずに火病で亡くなり、私が嫁ぐ頃には家勢はほとんど傾いて残っていないほどでした。
 結局、祖父、父、母、皆が兄の消息を聞けずに亡くなりました。私は何よりも母が亡くなったのが心に残っています。兄も無念ですし、父、祖父も残念ですが、母なしで幼い時期を送った記憶がとても心が痛く、時には私が守ってあげられなかったから母が亡くなったのだと考えたりもします。

兄の記録を探して

 姉と私はその後たった一人の兄の生死でも確認して、母、父の恨をはらしてあげようと兄の消息を探しはじめました。そうして被害者団体を知るようになり、2003年5月には韓国政府記録保存所で兄についての記録を探すことができました。記録によれば、兄は南洋郡道へ徴集され、1944年8月10日「ニュー・ギニア ヤカムル」という所で銃に撃たれて亡くなったことになっています。
 多くの被害者に出会い、共に活動しながら私は兄がとても哀れだということを体感するようになりました。たとえば、ほかの遺族がご自分の父の記録を探すために熱心に活動している姿を見ながら、血統がある子もなく、無念の死に遭った兄は、私がいなければ、記録を探し、記憶する人もいないと思いました。息子を失い、苦しい気持ちで亡くなった父、母の苦痛を考えれば、寝れなかったです。‘両親のくやしさを必ず解けてやらなければならない。私には兄の魂が休めるようにする責任がある’と決心しました。
 とても衝撃を受けた事実は兄が現在の靖国神社に合祀されているということでした。
死亡した場所と記録を日本は保管していながら、家族に知らせてくれなかったので、うちの兄は、家で死亡したこととして、戸籍の整理をしました。
 2006年12月、日本の厚生労働省に兄の記録を問い合わせたところ、2007年1月30日付回答に兄の所属部隊と徴兵日、戦死日、供託金額などが書かれた記録を送ってきました。 そして遺骨記録はないといわれました。
 このように記録が堂々とあるのに、何も知らされず、祖父、祖母、父、母、私の家族は兄の生死も分からないまま、義理の姉の立場を考えて死亡届をしながら、火病で亡くなったのです。日本はうちの兄を死に追いやりながら、私たちの家族皆を死なせたのです。日本でなかったならば、私の家族は幸せに暮らしていたはずなのに、兄が引かれて行きながら我が家は根元から揺さぶられました。このような日本をどうして許すことができるでしょうか。そのことを考えれば息をすることもできないです。
 2010年7月21日、靖国神社に無断に合祀した犠牲者の名前の撤廃を要求する「NO!ハプサ(合祀)訴訟」の1審の判決がありました。日本の裁判所は、宗教の自由も重要だから、遺族はちょっと不快に感じてもがまんしろといいながら、原告敗訴の判決を下しました。私は今でもなぜ、このような判決を下すことができるのか理解できないです。原告の中には生きている本人もいます。本人がきて「私は生きているので、私を神としてまつって祀るのをもうやめなさい」と要求しているのに、そのままがまんしろと言ったのです。とうてい裁判所の判決だと信じられません。
 祖父、父、母は兄の死亡通知を受けることができなくて、そんなに苦労し、恨を抱き、亡くなりました。それで、私は靖国神社に兄の名前が書いてあることがまるで兄が閉じ込められているようだし、祖父と親がずっと苦痛を受けているように感じます。靖国神社が犯している誤りが遺族たちを単純に不快にすることだけなのか、その苦痛は我慢できるだけのことなのか、日本の裁判所はどのように判断しているのでしょうか。がまんしろといえるのでしょうか。
 私は軍国主義の象徴であり、侵略戦争を正当化して美化するための手段の靖国神社に兄が合祀されているということをとうてい容認できません。日本の裁判所が法的に靖国神社の自由がさらに重要だと判断したのも理解できないのですが、法的な理を問う以前に、人間に対する基本的な礼儀を持っていないと考えます。ですので、これからも靖国神社と日本司法府のとんでもない判決に対応していきます。
 私は兄の遺骨を探し、恨を抱き、亡くなった両親のお墓の前に碑石でも一つたてたいです。直ちに遺骨をもどすのは難しいでしょうけど、靖国神社に兄の名前を抜いてもらい、一日もはやく兄の魂を強制合祀された靖国神社から自由にしてあげたいです。もう日本政府は、日本のために家族を失った遺族たちに心より謝罪し、遺族の要求に真実な行動で返たえなければなりません。