平成18年(ネ)第3198号

控訴人    郭鐘錫 外266名
被控訴人  日本国  外1名

      最  終  準  備  書  面
                                           2009年2月13日
東京高等裁判所第二民事部 御中

               控訴人ら訴訟代理人
                        弁護士   李   宇   海
                        同      大  口    昭   彦
                        同      殷   勇   基
                        同      鶴  見    俊   男
                        同       古    川   美

                         記
 
 本件での争点は多岐に亘るが,以下では,第1として被控訴人日本国の合祀への関与,第2として敬愛追慕する人格権,第3として民族的人格権,第4として日韓請求権協定に関する主張,の4項目につき特に記載し,最終的な弁論を準備する。

第1 被控訴人日本国の靖国神社合祀への関与の主体性
 1 被控訴人日本国の靖国神社合祀への関与は、完全に主体的・積極的なものである。
それは、戦中に陸軍省官房副官であり、靖国神社の管理運営・合祀事務の主管にあった、美山要蔵陸軍大佐(同人は,敗戦直後に「(戦死者を)犬死にさせちゃならんぞ。」という遺命を(元上官である)東條元大将・首相・陸軍大臣から受けた者である。)が、戦後も、軍事動員に関する戦後処理を担っていた第一復員省や厚生省引揚援護局の責任者になり、市ヶ谷庁舎(元の陸軍参謀本部が所在した建物)に陣取って、援護局の業務として精力的に戦死者の合祀を推進し、果ては、A級戦犯者の合祀までをも実現したという、歴史的経過に明らかである。
 2 ところで、戦前戦中の合祀は,直接的に陸軍・海軍自身の作業として遂行されたのであったが、戦後の合祀事務は、宗教法人としての靖国神社の発足後、政府が靖国神社に働きかけ、両者の合意によって進められるという形式をとることになった。
   それは、靖国神社が,戦前戦中に於いては大日本帝国の国家機関であり正規の軍事施設であったが故、戦後はかかる形式では到底存続できず、延命をかけてのGHQとの複雑な折衝のもとに、形式上、民間の一宗教法人として存続することとなった結果である。
   そのうえで、合祀のために必須である戦死者に関する情報を、合祀基準を決定した政府機関(上記のとおり、美山元大佐らが主幹)から、神社に合祀基準を含めて説明し、相互了解を達成しつつ提供(祭神名票の送付)して、靖国神社に合祀させるという構造に於いて推進されたのである。
この情報の収集については、厚生省が全国の自治体の関係機関に対して通牒を発して、厚生省への情報集中が督励された。
3 また、このような合祀基準の拡大と情報提供による合祀の実現は、戦死者の遺族に対する補償(それは、例えば沖縄の場合、乳幼児まで「戦闘協力者」とするというフィクションまで仮構されて行われた。)や、軍人恩給等の社会政策とリンクされ、セットとされて推進された。
   これにより、日本国民は、靖国神社合祀・天皇親拝による精神的慰謝と、経済的補償による援護を受けて、「犬死ではなかった」との観念を政府によって扶植され自ら納得していったのである。
 4 このような意図・構造・手続等により、全国的かつ政策的に行われた、戦死者の靖国神社への合祀事務は、まさに被告日本国と靖国神社との共同作業以外の何ものでもないことが明白である。
   神社での合祀それ自体は、たしかに宗教法人である靖国神社の行っている宗教的外観を有する行為である。しかしそれは、純然たる宗教法人が独自に宗教行為として行っているものでは全くなく、上記のとおり、被控訴人の行う戦後処理について、両者の緊密な意思連絡と相互了解のもとに(それは、例えばA級戦犯者の合祀に典型的に顕れたように、被控訴人日本国の完全な主導であった。)、協同的に推進されたのであった。
 5 靖国神社に於ける合祀のこの真実については、控訴人らは原審に於いてす  でに十分に主張立証し、これを明らかにしていた。
 しかるに原審裁判所は、被控訴人厚生省援護局等による情報提供(祭神名票の送付)について、これを「単なる行政サービス」などとという言辞を弄して、被控訴人の行為は政教分離原則(憲法20条)違反ではないなどとし、靖国神社合祀問題に関しては、その他の原告主張について判断すら行わないという粗雑極まりない判決を行った。
 6 しかしながら、かかるごまかしの言辞は到底通用するものではなく、原審裁判所は憲法の番人としての見識も勇気も何も持ち合わせていないということは、誰の目にも更に明らかである。
 その明白性は、既に証拠として提出した,2007年3月国会図書館が行った「新編靖国神社問題資料集」の公刊による。
 すなわち、これらによれば(これらが資料が、全てであるとは言えないとは思われるが)、戦後一貫して被控訴人日本国が靖国神社に働きかけ、主導して、これを受けた神社が合祀を行ってきたところの経過が、また、合祀者の範囲を拡大し、これを神社に了解させてきた経過(これは、戦前の陸海軍官房が各連隊長からの上申を受けて合祀対象者を選定し、天皇の裁可の後に神社に通知し、合祀を行わしめていたという構造と殆ど全く変わらない。)が、歴然としているのである。
 7 にもかかわらず、なお、被控訴人日本国は、靖国神社のなす英霊合祀に於ける日本政府の主導的な主体的関与を認めようとはせず、一定の反論を試みようとしている。
   しかしながらその内容は、資料自体に準拠した客観性ある議論ではなく、単なる政府の国会答弁等でしかない。これらは、もちろん憲法20条を意識したものであって、「政教分離原則違反」との批判を招くことがないように周到に配慮された、関係省庁の官僚による政治的答弁である。かかる言説を以て、本件に於ける被控訴人日本国の関与が非主体的なものであり単なる行政サービス的なものにすぎないなどということは、到底できるはずもない。

第2 被控訴人らにおける敬愛追慕する人格権の侵害について
 1 はじめに
 (1) 既に主張してきたとおり、朝鮮・台湾等旧植民地出身の戦死者についても、ひとしく合祀の対象となすことが、被控訴人日本国によって追求されてきた。
   けだし、日本人と同じく「天皇の赤子」として、天皇の仁慈を受ける者とされた結果、大日本帝国が行ったアジア太平洋戦争権力的に徴兵・徴用され、従軍したがゆえに戦死した兵士や軍属について、これを日本人と同様にして合祀の対象としないことは、大日本帝国による台湾や韓国の併合・統治について否定的評価を行っていない靖国神社イデオロギー、及び、そこへの合祀を以て戦後処理の完遂と観念している被控訴人日本国としては、あってはならないことであったからである。
 (2) このような合祀者の範囲拡大の結果、本件原告らの父親達については、大日本帝国の降伏敗戦・朝鮮民族に対する植民地支配の終結から14年間も経過した1959年に至って、被控訴人日本国によって合祀基準が設定され、靖国神社への説明・合意形成の上で合祀が行われたのであった。
   その際、事前事後に遺族の了解をうる手続はもとより、合祀の事実の報告さえ一切行われなかった。
 (3) なお、更に極めてアンフェアなことがある。
   それは、「当時は日本人だったのだから」などとして、一方的に合祀が強行される一方で、日本人の戦死者に対しては行われている(前述のとおり、それは沖縄では、当時乳幼児であった「戦死」者に対してまでも行われた。日本人に対するこれら補償額は、総額で概算50兆円にも達するとされている。)戦後補償は、朝鮮・台湾等旧植民地出身の戦死者に対して一銭も行われていない(それどころか、本件でも証拠上明らかなとおり、賃金等の未払金すら存在しているほどである。)。
   その理由は、各種補償立法に於ける「国籍条項」が根拠とされている。すなわち、「今は日本人ではないから」というわけである。
 一方に於いては「日本人だったから」として勝手に合祀し、これを知った遺族の反対をも無視しておきながらの、このようなダブルスタンダードが、どうして許されるのであろうか。
従前の各戦後補償裁判では、裁判所までがこの「国籍条項」の有効性を承認し、被控訴人日本国による、この自分勝手なダブルスタンダードを許容してきていることは、実に嘆かわしい限りである。
 (4) ところで、被控訴人日本国による本件合祀行為が、憲法20条3項に違反する違憲違法の行為であることは、叙上のところより明白である。
   しかして重要なことは、この違法行為は、政教分離という憲法上の大原則に違反しているのみならず、それらによって、控訴人らの重大な人格権・法益を侵害していることである。
 控訴人は従前から、これらについて、
   民族的人格権
   宗教的人格権
   個人としての情報をコントロールする権利
   親族としての敬愛追慕する権利
等の侵害であるとして論じてきたところであるが、死者に対する敬愛追慕の情の権利性、法益性についての判例・学説について、ここで再度、簡単に確認する。
(5)いわゆる「落日燃ゆ」事件判決(東京高判1979年3月14日判時918/21)は、死者の名誉毀損が問題となった事件であるが(死者の甥が謝罪広告と慰謝料を求めたもの)、この判決は、死者の名誉毀損を以下の2つの場合に分けた。
@死者自身の名誉毀損の場合
A死者の名誉毀損を介して遺族の人格的法益(死者に対する敬愛追慕の情)が侵害される場合
 判決は、@については、不法行為の成立の余地は認めながらも、この事件では請求権者が存在しないとして、Aについて審理した。この判決自身は請求を棄却したものであるが、遺族に対する不法行為責任の成否について考慮すべき要素として,
@)死者への遺族の敬愛追慕の情は時の経過とともに軽減していくこと
A)年月の経過とともに歴史的事実探求の自由・表現の自由への配慮が優位に立つこと
B)公表された事実が虚偽であるかどうか
の3つを挙げていたものであり、死者に対する敬愛追慕の情の権利性、法益性自体は承認されていた。その後も、同旨の判決がある(静岡地判1981年7月17日判時1011/36、大阪地堺支判1983年3月23日判時1071/33(実録小説『密告』事件)、大阪地判1989年12月27日判時1341/53(エイズ・プライバシー事件)。
 本件について、上記@〜Bの要素を検討すれば;
@)遺族の多くは死者の子などであり、敬愛追慕の情が時の経過とともに軽減しているとは言えない
A)同様に、歴史的事実探求の自由・表現の自由への配慮が優位に立つほど年月が経過していないし、そもそも、本件では、被告日本国側が歴史的事実探求や表現を行ったわけではないし、憲法によって規制されるべき公権力である被告日本国は歴史的事実探求の自由・表現の自由などの人権を享有する主体でない
B)本件では、事実が公表されたかどうかというようなことはそもそも問題となっていない
という事情を指摘することができる。
 以上によれば、敬愛追慕の情に対する侵害を理由とする原告らの請求には十分な根拠があるというべきである。

(6)以下では当審に於ける証拠調の結果にふまえて、親族として敬愛追慕する権利に対する侵害を再度論ずることとする。
 
 2 控訴人本人李熙子の供述から見る,敬愛追慕する人格権への重大な侵害
(1) 供述の要旨
控訴人李熙子は、原審・当審に於いて、要旨以下のとおり供述した。

ア 原審
父は、1945年6月11日に中国の江西省で亡くなった。23歳であった。   父が徴用されたとき、私は13ヶ月の乳児であった。
   父の死亡について、日本政府からは何の通知もなかった。
    今証言していても、怒りが沸いてくる。通知さえなされておれば、私達家族が帰還を切望して苦しい気持で長年過ごすことはなかった。
靖国神社から、合祀の通知が来たことはない。部隊留守名簿(甲468)を見て初めて判った。
父が靖国神社に合祀される理由は全くない。戦犯者を追悼している施設であり、父は彼らのために犠牲にさせられた。日本政府は謝罪も何もしておらず、また、無断で合祀した。これ自体許せない行為であり、かつ、道徳的・民族的にも許されないものである。
靖国神社への合祀は、私達遺族のためにではなく、日本政府のために行っているのだと理解している。
私の父は、靖国神社に生命が監禁されている。
    これ以上、精神的な苦痛を与えないでほしい。靖國神社から父を解放して欲しい。
 私は、1994年に、韓国の忠清南道の天安市にある「望郷の丘」に、父親のお墓を作った。しかし、このお墓には名前が刻まれていない。
    私がこのお墓に名前が刻めるのは、父親の死について更に詳しい事実を明らかにしえ、日本政府が謝罪し、靖国神社から父の名前を撤廃(削除)しえたときである。 

イ 当審
父は、1945年6月11日に中国の江西省で亡くなった。
    この事実を知ったのは、1992年,日本政府から韓国政府に渡された記録から知った。しかし、日本政府からは現在に至るも何の連絡もない。
父が靖国神社に合祀されていることは、1997年になって「留守名簿」から判った。日本政府について許せない気持であった。家族に死亡の通知も出さずにいて、一方で勝手に合祀するなどということは、あってはならないことだ。
 私は10歳の時に(この年に母親が再婚)、父親に対して誓いを立てた。無念に亡くなった父親の子として、恥ずかしくない生き方をしたいと誓った。そこで、私はずっと父の亡くなった痕跡を探し求めた。靖国神社への合祀の事実が判ってからの活動も、その誓いによる。
 靖国神社に合祀された父の名簿を、必ずそこから取って故郷に持って帰るという一念で訴訟も提起した。
 韓国人にとっては、霊魂が靖国神社に監禁されているようになっているという受取方が普通である。韓国にいる原告は全員がこの気持だ。
 父は植民地支配された民族として無念に死んでいった。私の家族はそのために破壊された。子供として父の名誉を回復したい。
    そのために父の名前、三つの文字を必ず取って帰りたい。
    それが子供としての親孝行だ。それが出来なかったら親不孝になってしまうので、そのためにこれまで裁判を行ってきた。父の名前を取ることが出来ないのであれば、子である私は一日も心安らかに生活することが出来ない。
2001年8月14日に靖国神社に行ったとき、日本の国旗を持って悪いことをしている集団から、「汚い朝鮮人帰れ!」と言われた。
このとき、「汚い靖国神社から、1日でも早く父の名前を取りたい。」と、 覚悟を新 たにした。
 東条英機の孫娘の女性と、TVで対談したことがあったが、「合祀は光栄」という彼女とは、話は全く噛み合わなかった。
 2005年、父が亡くなった中国の病院の蹟を初めて訪ねた。父の死後、60年経っていた。靖国神社への合祀問題を扱った「あんにょんサヨナラ」という映画を撮るために行った。
 活動で多忙であったこともあるが、死亡の事実が分かってから10年以上経ってから初めて訪れたということに、私は父に対して大変恥ずかしく親不孝だと思った。

 (2) 供述の意義
  ア 李熙子本人の供述には、以下のとおりの心情が強く顕れている(なお、本訴訟に於いては合祀問題に関する人証としては、訴訟進行上の事情から、不本意ながら、控訴人本人李熙子の尋問に絞らざるを得なかった。しかし、他の控訴人本人も日頃、同旨の心情を語っているのであって、言わば李熙子はこれら全員の心情を代表して供述したものである。)
  李熙子本人の供述に強く流れているのは、「父親は靖国神社にいまだに囚われている、監禁されている。」という意識であり、「名前を持って帰る(つまり、霊璽簿からの抹消)ことが、父の子としての責務なのだ。」との強い親孝行の責任感であり、「これが果たし得ないならば、自分は親不孝であり、父に恥じない生き方をしようとの、10歳のときからの誓いに背くことになる。」との罪の意識である。  
    そして、李熙子本人は、原審において,

      「望郷の丘」に父親の御墓を作ったが、名前は刻んでいない。名前を刻することが出来るのは、靖国神社の霊璽簿から父親の名を削除することが出来てからである
   
   と、明言している。

 イ ここでは、以下の強い思念・心情の存在が、明らかに看取される。 
(ア)離別が極く幼少の時であったために、顔も覚えていない父親に対する強い尊敬・愛情と思慕の念
(イ) 靖国神社に合祀されている状態は、いまだに父親は日本に囚われ、監禁されている状態であるという観念
(ウ)したがって、霊璽簿の名前を抹消し、名前を韓国に持って帰る(連れて帰る)ことが、子としての最大の責務であるとの強い責任感
  (エ)だが、いまだにそれを果たし得ていないことは、親不孝の極みであるとの激しい自責の念
(オ)現在のような状況にあっては、「望郷の丘」に立てた父親の御墓に名前を刻むことは出来ないとの認識と決意 

 ウ 上記思念・決意の構造は、次のとおりである。
(ア)李熙子本人は、亡き父親に対して強い敬愛追慕の情をを感じていると共に、父の無念の死について、ただ一人の子として、心から哀悼している。
 (イ)父親の追悼のために、お墓も建てた。そのお墓には当然、最も大切な父親の名である「李思R」の字が刻まれていなければならない。
    しかし、現在に至るも、それはできないでいる。現状は、日本で言えば、  言わば「無縁仏」に等しい状態である。
 (ウ) 心から愛慕している父親の子として恥じない人生を送ることを決意し、そのように生き抜いてきた李熙子本人が、当然に、その追悼を篤くなすことを、子としての最大の責務と考えている。にもかかわらず、敢えて父親のお墓を「無縁仏」同然の状態においておかざるをえないのは何故か。
    それは、大日本帝国軍隊の象徴である靖国神社に、父親がいまだに囚われ、監禁されたままになっているからである。
(エ)すなわち、ここには以下の問題が存している。
    父親の、家族から引き離された悲しく悲惨な死をもたらした者は何か、誰か。それは日本帝国であり、その朝鮮支配である。
 子として、無慚な死を遂げさせられた父親の名誉を回復、追悼しなければならないが、そのためには、父親を、この死の原因をなしたものから、完全に離脱させなければならない。必ず、救い出さなければならない。
 この離脱・救出を実現することなくしては、敬愛する父親に遺族として・子としてその追慕の真情を顕して伝えることができない、そのような状態ではいかなる儀式をなそうとも、真に父を追悼することにはならないのである。
(オ)靖国神社は大日本帝国軍隊の象徴であるから、その霊璽簿に父親の名が載せられているという現状は、日本帝国の朝鮮支配への「囚われ」「監禁」
の継続であって、日本帝国支配の下からの離脱・救出を実現出来ていないということを意味している。したがって、この離脱・救出とは、靖国神社の霊璽簿から父親の名前を消し、故国へ持って帰り、父親を連れて帰ることによって、初めて実現出来る。
 しかし、現在もそれは実現されていない。
 (カ)このために、李熙子本人は故李思Rのただ一人の子として、父親に対して遺憾なく、自分の敬愛の情を顕し伝え、全き追慕をなしたいと、心から念願しているのであるが、しかし父の名前の霊璽簿からの抹消・帰還が実現出来ていないために、それは叶っていない。
    李熙子本人の父親に対する敬愛追慕は、靖国神社の合祀のために、いまだに実現できていないのである。そのような李熙子本人は、自分自身によって「親不孝」と激しく呵責されている。

 エ そもそも人間にとって、人の死の事実、ないしこれを受け止めるための個人及び遺族・社会の営為は、古来、最も深重であり、厳粛なものと考えられ、現実にもそのように実践されてきた。
    李熙子本人の上記のとおりの思念・行動(これは、本件に於いて靖国神社への合祀の絶止を訴求している他の控訴人本人達全てに共通しているものである。)には、36年間もの植民地支配を受けた韓民族の一人としての、また、李思Rというかけがえのない一箇の人格性を有した、たった一人の人間の遺児・遺族としての立場から切り離されることのない、一人の個人(憲法13条によって、何よりも尊重されるものと原理的に位置づけられている。)が、かかる事実についてどのように考え行動するのかが、その人格性の根源に由来して顕現されている。
これは、憲法13条によって強く保護されなければならない人格権のコロ  ラリーである。
  そして、靖国神社への合祀が行われている現状と併行しては、その保護は、  絶対的に実現されえないものである。
 なぜなら、上記のとおり、李熙子本人の痛切な心の痛みであるところの、「父に対して敬愛追慕出来ない」という事態は、靖国神社(父の不幸な死の原因となった大日本帝国による朝鮮支配、及びその結果としての戦争動員を、その存立理念の根柢に於いて肯定し、自他共に帝国軍隊の象徴とされている。)による無断合祀そのものが、その源泉となって出来しているものであるからである。
 「かつては日本人だったのだから」などとして、朝鮮に対する植民地支配をいまだに肯定している靖国神社は、遺族の了解はおろか通知すら無用とし、更には中止要請すら傲岸な態度で無視している。控訴人らの故人に対する敬愛追慕の情を顕し追悼する権利が実現される上で重大な障碍となっているいるところの、靖国神社による本件合祀が、控訴人本人達の有しているこの人格権に優越などするものでないことはもとより、これらと無関係に併行すべきものとして法的保護の対象となるものでないことは、改めて言うまでもない。

 オ ところで上記のとおり、人間が、故人となったその父母・兄弟・配偶者等について敬愛追慕の情を顕して、心から追悼することは、人間としての根源的行為であり、重要な人格権上の権利なのであるが、改めて言うまでもなく、人間は、抽象的一般的に生きているのではなく、一定の歴史・伝統を有する特定の民族の一員として、特定の社会に於いて成育し、生活している。
   そのような敬愛追慕の心情はどのような内容・構造に於いて形成され抱かれ、発露されるのか。あるいはまた、その追悼はいかなる形式によって行われることを自ら求め、ないしは一定の社会規範的なものとして社会的に要請されるのか。これらについて、当該個人が生まれ、成育し、生きてきた特定の民族・社会が、一種のエートスとして、その精神作用の根柢に於いて影響を与えるのは当然である。
 控訴人らは韓国人であり、韓国社会に於いて数十年の人生を送ってきた。
それゆえに、韓国人として、その考え方・感じ方・行動様式に於いて、日本帝国に植民地支配されたという悲痛な歴史(ましてや控訴人達は、その直接の被害者である)と共に、個人差はありつつも、韓国に於ける伝統的な民俗・習俗の影響下にあるものである。
したがって、前記のとおりの「故人に対する敬愛追慕の情の抱懐や発露、
追悼」という、人間としての根源的な心情・行動をなす場合にも、韓国社会の伝統的な考え方や習俗に深く影響を受けているのであり、また、その精神作用・行動は、(個人差はあれども)これに従ってなされるということが留意されなければならない。
 李熙子本人の前記証言は、すでに分析したとおり、日本帝国主義の植民地支配による犠牲者としての「敬愛追慕の真情」として、十分に理解・了解が可能なものであるが、上記した観点からの分析も更に可能である。
   そこでは、靖国神社への合祀が、韓国人である控訴人本人らの人格権に対して、非併存的侵害をなしているのだということ(個人の心情から、及び、社会に存在している規範意識から)が、一層理解され、本件合祀の違法不当がより明らかになる。
以下にこの観点から、当審で証言した朱剛玄博士作成の「鑑定意見書」および証言等を一箇の重要な見解として、項を改めて論述する(なお念のために付言しておくが、これは歴史民俗学的な立場からの、思考・行動様式に則した議論である。それゆえ、個々の韓国人が必ずそのとおりに思考し、行動するというものではないことは、もちろんである。そうでない韓国人も現実に多数存在する。しかし、その事は本論の妨げになるものでは全くない。)。

カ 李熙子供述を分析する手立てとしての証人朱剛玄の証言(含 甲268−  1・2)
 (ア)朱剛玄証人の証言、及び同博士が大韓民国シャーマニズム学会会長である李弼泳博士と共同作成された「鑑定意見書」(甲268−1・2)によれば、以下が明らかである(なお、速記録中7頁10行目冒頭の「当然だと思います。」との発言記録は、発問で述べられた考え方が「当然」と言われているようにも読めるが、全体の、ないしはこの項の供述の趣旨に反していることが明らかである。ここでは「例えば、イスラム教徒が亡くなった場合にはイスラム寺院に行くのが当然である」との趣旨で「当然」と言われているのであり、通訳・翻訳等の際の何らかの過誤が介在したものと思われる。また5頁下から8行目に「ヨルサン」とあるは、「ヨルサ」が正しい。)。
(イ) 朱剛玄博士は、かつて巫俗研究の世界的権威である金泰坤博士の薫陶を受けた逸足であって、大韓民国歴史民族学会の前会長であり、韓国に於ける伝統的巫俗の研究者として著名である。自身も広範なフィールドワークに基づいて「クッの社会史」(「クッ」は韓国に於ける伝統的シャーマンであるムーダンが行う祭儀)という研究書を公刊(1992年)した(歴史民俗学とは、韓民族が歴史的・社会的にいかなる文化的伝統・習俗のなかで人生を送ってきたのか、また、現在的にも送っているのかについて、その形態や伝統、ないし、そこに於ける韓国人の意識などについて研究する学問分野である。)。
(ウ)証言・鑑定意見書等の要旨
a 韓国人の伝統的死生観・霊魂観・慰霊観及び習俗について
  (a)人間はノック(霊魂)と肉体 イスン(現世)で生活している。
(b)死により両者が分離し、ノックはチョスン(あの世・来世)に行くことになるが、現世で幸福な人生を送り、自宅で子供らに看取られつつ心安らかに死に、一定の格式による葬礼によって葬られることが出来た人の霊は、 祖上(善霊)として、無事にチョスンへ行ける。
 逆に生前に甚だしく不幸であったり、あるいは不幸な死(夭死,変死,損傷死,異郷での客死−例えば「客死しろ!」は韓国語に於ける罵詈である−・異常で悲惨な死・遺体の放置・家族に不明の死など)を遂げた場合や、死後に、悲劇的な理由によって相当の格式を以て葬られず、子孫によるしかるべきチェサ(祭祀)が行われないような場合には、生前の怨みが解けず霊は苦悩し、チョスンに行くことが出来ず、現世・来世のいずれにも属さず、現世に強い怨みを遺しつつ、九天を彷徨う。このような霊は、怨鬼,鬼神(悪神),雑鬼と呼ばれる。
   (c)祖上は、霊魂と人間相互間に人倫性をもたらし、子孫を守る霊として
    尊ばれる。
一方、怨鬼・鬼神・雑鬼は、自分自身も苦しみつつ、現世の人間・子孫に犠牲・害悪をもたらすものとして、忌まれ恐れられる。
(d)このような観念から、怨鬼の解怨が大切なことと考えられている。伝統的にはそれは、ムーダンによるクッによる解怨として行われ、それによって、チョスンへの薦度(推薦し渡す)して、霊がチョスンで復活出来るようにしてきた。
そして、子孫は命日・節句にしかるべきチェサを厳修挙行することにより父祖の霊の祖上としての安穏と、子孫の守護を祈念する。
(e)その方法としては、次のようである。
     例えば、客死者の場合には、霊魂・遺体共に帰郷させて、一定の格式により故郷に安葬し、死の公的確認の後に、正式の葬礼をなし、遺族が公的哀悼を行う。
     仮に、他国・他郷に於いて、他の人や宗教団体によって霊魂が祭祀を受けたていたとしても、客死である事は変わらない。それゆえに他郷で祀りつつ、故郷でも祀るということはありえず、現実にも無い。チェサも宗孫が行うのが原則であって、他郷と併行的に行うという事はない。なぜなら、霊魂は一であるからである。これを分けて祀る事は出来ない。
他国で祀られている霊は、きちんとした祭祀・クッ(ちのぎクッ・しっきむクッ・すまんクッなど)をとおして、霊魂に移転の事由を明らかにし、死体及び霊魂が宿る位牌を故郷に心を籠めて遷して安葬し、クッを行って霊魂を慰撫し、薦度する 。そして、命日や名節に祭祀を行う。
  あるいは、損傷死体の場合、死体を象徴的に完全化して正式の葬礼を行い、クッを行い、チェサを欠かさない。
(f)これら(解怨・祭祀)を丁重に行って、父祖の霊が不幸な雑鬼の状態から祖上に昇格して頂いて、初めて、遺族も通常に生活することが出来る。
   b 「歴史的冤鬼」という不幸な霊の存在
(a)不幸な死については、個人的な場合のみならず、更に歴史的桎梏による死の場合が存在する。これは「歴史的冤鬼」と呼ばれ、歴史的(封建的圧政・帝国主義的圧政)事件により、罪無く殺された死者の場合である。
(b)その怨は、個人的ではなく、歴史的・社会的なものであり、韓国人・韓国社会に通有する心の痛み,解怨の責務感が感じられているものである。
   (c)したがって、それらは家族・遺族の次元を超えて、国家社会・地域が解決すべき急務と考えられている。事例としては
4・19革命(李承晩独裁政権打倒)民主学生烈士
1980年代 民主化革命烈士
2000年代 駐留米軍による犠牲者
    などが近年の事例である。
そのほか、日帝統治時代に、中国や満州などの地で犠牲となった多くの独立運動家の遺骸や霊魂も、1945年の解放後に、続々と韓国に戻り、正式の葬礼・祭祀を受けてきた。そのうち、解放に多くの功労ある独立運動家は、国葬の礼遇を受け、国立墓地に安葬された。
   c 不幸な死を遂げた父祖の霊に対する、遺族・子孫の責務
(a)韓国では、伝統的なないし社会的規範意識として、自分の肉親が異国,    異郷で異常で非常に不幸な死を遂げたという場合には、必ずその霊を探    し出し取り戻さねければならないと観念されている。
(b)その怨みを持った霊を探してでも連れてきて、その霊を解怨してあげなければならない。必ず取り戻すべきだと、韓国人は思っている。
   d 靖国神社の場合
(a)靖国神社に、父や夫、兄の霊が合祀されていることは、韓国人にとっ    ては大切な親族の霊が幽囚されていると観念されている。
     すなわち、父祖の霊が、明治以降日本帝國のアジア侵略過程に於いて、天皇・天皇制護持のために死んだ将兵達を「英霊」として祀っている靖国神社に合祀されている、つまり、自分達の悲惨な死の原因を作った日本人と共に祀られている事態については、韓国人の伝統的習俗からは、それは祀られているのではなく、監禁されているのである。「霊魂幽閉」と呼ばれる事態である。
(b)植民地支配の宗主国であった日本帝国による、戦争動員の犠牲者である韓国人が靖国神社に合祀されていることは、韓国人にとって容認出来ない事態である。
  植民地支配の宗主國であった日本帝國の軍隊に、法的ないし事実上の力によって強制動員された結果、爆死・戦闘死・餓死するなど悲惨な死を遂げさせられた犠牲者の霊は、韓国人の伝統的な霊魂観からするならば、それは歴史的怨鬼である。
靖國に祀られていることは、冤鬼自身・遺族にとって耐え難い恥辱である。不幸な死の原因者による祭祀など、韓国人にとっては、普遍的に全く受容できないものである。死後も植民地支配されている事態。霊もこれからの脱出を望んでいるはずである。
   (c)現在の「霊魂幽閉」の事態に本人の霊が苦しんでいる状態にある。
     この事態を放置することは韓国人の習俗からは許されないことである。 このような事態は韓国人の心を痛切に痛ませるものである。韓国は儒教の国であり、子供は親孝行しなければならない。
     自分の親の霊魂が監禁されている場合、それを取り戻さなければ親不行になる。
(d) 不幸な死を強いられ、怒りと怨みに満ちた霊を鎮め慰めるためには、靖国神社に於ける一定の祭儀を以て霊を解放し、霊に説明したうえで、母国・ふるさとに御迎えし、しかるべき祭儀を行い、更に欠かさずチェサを行ってゆかねばならず、また韓国に於いて公的にもその死の意義を明らかにし、必要な名誉回復を行い、また国家機関などが一定の格式を持った葬儀を行い安葬しなければならない。
すなわち、靖国からの解放は個々の遺族からすると、祖上になることが出来ず苦しんでいる父祖の霊を故国故郷に取り戻し、薦度を行うべき子としての責務を果たすことであり、また、韓国社会としては歴史的怨鬼の解怨を行い、一定の名誉回復をなさねばならない課題なのである。

キ 補足(当該供述と当該証言の関係)
(ア)控訴人本人李熙子については、尋問時間が非常に短時間であっために、十分に意を尽くせなかったことは、全く残念である。
    しかしそれでも、李本人の供述には、朱証人の証言(含 「鑑定意見書」 以下同じ)で明らかにされた内容が、はっきりと顕されている。
(イ)朱博士の証言の把握について
    なお、ここで留意さるべきことがある。すでに前述したところであるが、控訴人本人李熙子の供述を精確に理解する上でも重要なことであるので、
敢えて重複を厭わず注記しておきたい。
   それは、原告らが100%完全に、朱博士と全く同じように考え、供述しているのでなければならない、ということではないということである。
なぜなら、朱博士が歴史民俗学の見地から述べられるところは、多数多様な韓国人に対する膨大なフィールドワークの結果から抽出されたところの、韓国人の伝統的で支配的なエートス、思考形式、心性・心情の傾向性、また、これらに根ざす、あるいは、これらが顕れたところの習俗の、その一般化・典型化であるからである。
それゆえ、現実の韓国人も全て必ずそのとおりであるはずだ、逆に言えば、そうではないケースがあればこの理論は認められないものだ,などと考えるのは、歴史民俗学によって抽出・措定される<典型論>に対する誤解である。
 したがって、現実の各個人をとってみれば、この見解にほぼ100%同一な個人もいれば、一定の部分にこれを同じくしている場合、あるいは極端な場合これに反している個人も実際には存在しているのである。しかし、だからといって、このような歴史民俗学的な一般論が否定されるというものでは何らない。全体として支配的に、その存在が看取される習俗であり,エートス、心性・心情が問題なのである。
 例えば、「日本人の宗教観として歴史習俗学的・宗教学的に、神仏習合的・複数宗教混淆的な傾向性が強い」とされてきている。しかし、現実の日本人個人に則すれば、一神教的に仏教・キリスト教・神道などを信仰する者も決して少ないわけではない。だからといって、日本社会・日本人の神仏習合的・宗教混淆的性格は何ら否定されない。それらが強固な日本人のエートス、社会的規範性として存在していることには全く変わりがないからである。
   したがって我々は、むしろこれを<典型>として、現実の韓国人の心性・韓国社会の社会的規範性の内容を理解する、その準縄として活用するべきでなのある。

 ク 以上からする李熙子本人の供述の特徴
    以上に見たところから、改めて李熙子本人の供述の特徴を検討してみるならば、以下が明らかに看取される。
   「父が監禁されている」との表現は、一定の形而上的な、しかし単なる観念以上の実在的なものの存在を予定する表現である。歴史的・民族的な理由として合祀に対する怒りは当然であるが、「監禁」「靖国からの解放」等の表現は、それ以外のものも感じさせられるものである。
    それが、当審に於いて朱剛玄証言に表れる韓国人の思考にエートス的に存在していると認められる、いわゆる霊魂であると考えられる。
    それゆえ、李熙子本人も「父の霊魂が監禁されているという考え方は、韓国人に普通のもの。」とした上での質問に対して、「はい、そうです。」とこれれを認めた上で、更に「必ず名前を取って帰る」との供述を行っているのである(当審調書3頁)。
   「名前を取って帰る」とは、まさに神社の霊璽簿に父の名前があることが「監禁」されているということなのであるから、「取って帰る」ことによって「父を解放し」「故国・故郷に連れ帰る」ということを意味している。解放し、連れ帰るとは、そこに一定の実在性を持った<父なる者>を措定することによって成立つ言語である。
    まさに李熙子本人にとっては、父の名は、そのような<父なるもの>を表徴しているものなのである。それは、本人がその用語を使用するしないにかかわらず、伝統的には「霊魂」とされてきたものである。
    それゆえに、「裁判に勝って、靖国から撤廃(すなわち名前の削除)しない限りは、お墓に名前が刻めない」のであり、そして、「そのような状態(父を靖国から解放し得ていない状態)でのお墓への参拝は、子としての責務を果たしたことにはならない、親不孝な状態」なのである。
    ちなみに、韓国社会に於ける伝統的規範としての、篤い先祖尊崇、親への孝養の重要性は、広く知られているところであるが、李熙子本人には、このように、それが最も純粋な形で強く存在していることが明らかである。
    日本帝国軍隊への強制動員と悲惨な犠牲、しかも靖国神社への一方的合祀は、あらゆる意味に於いて韓国人にとって「不幸な死」の典型、ある意味では極致であり、個人的・歴史的社会的解怨が必要な場合であり、遺族個人にとってはそれを達成しないことは「親不孝」と観念されることとなることが、朱博士によって指摘されている。
    まさに李熙子本人は、「靖国からの解放」を実現出来ていない現在は「親不孝」であると考え、強く自分を責めているのである。
    以上からして、李熙子本人の考え方・心情には、韓国社会に於ける典型的な規範意識が流露されていると評価できる。 

 3 小括
   上述したところからして、次のことが明らかである。
   憲法20条3項に違反した違憲違法の本件合祀行為は、具体的にも政教分  離原則に違背しているのみではない。
   それは、控訴人李熙子が現に生きてきた、生きている韓国社会に於ける伝統的・支配的な考え方・習俗からして、絶対に認められない事態なのであり、かつ、その解決を達成しえていない現状は、儒教精神が支配的である韓国社会に於いて最も重要な徳目であるところの親孝行に違背する、親不孝という最も蔑まれるべき事態なのである。李本人は、この点に於いて激しく自身を呵責している。
   この被害者の痛ましい姿に、我々は次のことをはっきりと見なければならない。
   それは、控訴人李熙子本人ら遺族が自ら行わなければならない、父親らに対する伝統的慰霊鎮魂、絶対に欠かしてはならない祭祀(チェサ)の、靖国神社の行っている合祀に対する、絶対的非和解性・非併行性・非許容性ということである。すなわち、靖国神社が言っているような「互いに邪魔しあわないで、それぞれ自分の流儀で祀ればよいではないか」などという、靖国神社にとって都合のよい考え方は、韓国社会では成り立たないのである。
   こうして靖国神社による本件合祀は、控訴人本人らが、韓国社会に於ける強い規範に従いつつ、父祖を祀るという人間社会に於いて最も厳粛であり重視されている、とりわけ韓国社会に於いてそのような観念されているところの行為を行う上で、決定的な障碍事由となっているのである。このような権利侵害・法益侵害は、韓国人である控訴人らの人格権に対する重大な侵害である。
   したがって、その不法性の除去、正義・公平にかなった問題解決のためには、実体的なその侵害行為の除去(合祀絶止・被控訴人による情報提供の撤回)が不可欠である。 
   ましてや、損害賠償のなされるべきことは論を俟たない。

第3 民族的人格権についての補充
  既に述べてきたとおり,被控訴人らが主張する民族的人格権とは,

  自らの意思に反して,自らの親族が,侵略戦争の主謀者及び積極参加者とともに,また,植民地獲得と抵抗運動弾圧のための戦争で死亡した日本軍人等とともに,侵略した民族固有の宗教によって,侵略した国家の主権者(元首)もしくは象徴に忠誠を尽くした者として武勲を与えられること拒絶する法的利益

 である。
  当該被侵害利益の主張に関し,以下に,被控訴人李熙子本人及び証人内海愛 子尋問(以下,「証人内海」と言う。)の結果を踏まえて補充する。

 1 再度の引用になるが,被控訴人李熙子は端的にこう語っている。

  父は植民地支配の民族として無念に死んでいきました。私の家族はそのために破壊されました。子供として父の名誉を回復したいです。そのため父の名前,三つの文字を必ず取って帰りたいです。それができなかかったら親不孝になってしまうので,それのために今まで裁判を進めていると思います(当審における被控訴人李熙子尋問調書3ないし4頁)。

   被控訴人李熙子にとって,父の戦死は無念の死であり,名誉を汚された死である。それはとりもなおさず,自らの民族が「植民地支配の民族」つまり被告日本国によって侵略され植民地支配を受けた民族であり,父はその一員として侵略し支配した側の民族の都合によって引き起こされた戦争の犠牲となったことを意味する。被控訴人李熙子にとって,父の死は恥辱の死であり,父の名前の三つの文字を靖国神社から「取って帰」らないかぎり,その恥辱を雪ぐことができない「親不孝」が継続するのである。
   これが被控訴人李熙子の人格を損なう事態であることはいうまでもないし,ここに人格権の侵害を見ないとすれば,凡そ人格権の概念自体が無に帰する。「その概念自体,抽象的かつ不明確である」(原判決32頁)などという判断が,いかに弛緩したものにすぎないか,一目瞭然である。
  
 2 かかる被控訴人李熙子の父の恥辱の死はどのようにもたらされ,同人を含む韓国人軍人軍属の遺族・家族はどのような戦争後の軌跡を辿ったのか。

  これ(第二次世界大戦において朝鮮民族に戦死者,戦犯としての死刑者が出ていること)は,陸軍省が兵力計算をします。このまま中国での戦線を拡大したら,大和民族ですね,いわゆる内地人だけでは兵力が不足する,こういう計算に基づいて,1938年,志願兵制度が実施されます。こういう形で兵力動員をしていきます。そしてその後,1943年になると学徒兵ですね,学徒出陣が行われます。そして徴兵制という形で,朝鮮人を不足する日本の兵力の補充として動員していく,こいう政策を具体的に立案していく,それで朝鮮人が戦争に動員されていくという,この過程がありました(証人内海尋問調書8頁)。
  
  親日派という形で子供,特に私と同じぐらいの年輩の人たちは,戦後,学校の中で随分いじめられたと。何かあると親日派の息子のくせに,チニルパ(親日派)っていう形で言われたと(同12頁)。

   要するに,被控訴人李熙子の父らは,被告日本国の侵略戦争のための兵力不足を補充するために植民地出身の「帝国臣民」として動員されたが,戦争終了後その遺族らは植民地支配に協力した者として烙印を押されて白眼視され,植民地解放後の国籍を口実に平等な補償からも排除された(同13及び18頁)。にもかかわらず,同人らは,アジア解放のための聖戦の「尊い英霊」として靖国神社に祀られ,その「武勲」を称えられ「遺徳」を顕彰されている。
   これらの諸事実は遺族らにおいて,

  その事実(兄が靖国神社に合祀されている事実)を知った彼女は,今まで日本を恨もうとは思ってこなかった,しかし死亡したことも通知しない,それにもかかわらず,なんで一方的に靖国神社に合祀するんだと,私は日本を深く深く恨まざるを得ません(同14頁)

  という深刻な被害感情を惹起しているのである。   

 3 一般な仮定として,犠牲を強いた民族と強いられた民族(抑圧した宗教勢力とされた宗教勢力を想起してもいい。)の間において,前者が後者に属する人々を自ら引き起こした戦争に駆り出し,その結果当該の人々が犠牲になったとしてみよう。その場合に,前者にとっての固有の宗教方式で犠牲者の武勲(もちろん,前者にとって武勲である。)を称え,遺徳を顕彰したとすれば,当該犠牲者らの遺族が二次被害とでもいうべき,激しい精神的苦痛を覚えることは,我々の経験則上明らかである。
   被控訴人ら主張にかかる民族的人格権の侵害とは,こうした場合にもたらされる人格権侵害を指しているのであって,決して理解に困難を来す複雑な主張ではない。
   誤解なきよう慎重に述べるが,仮に,米国が自ら投下した広島・長崎の原爆による犠牲者につき,「我が国の戦勝の過程で重大な役割を引き受けてくれた,自国にとっての一種の英雄である。」とでも称揚してこれを米国内で宗教的な行為の対象にしたとすれば,原爆犠牲者らの遺族は人格を毀損されないだろうか。
   被控訴人らの民族的人格権の主張は,このような最低限の他者理解・多民族理解によって容易に了解可能なものである。


第4 日韓請求権協定を援用する被控訴人の反論
 1 はじめに
 (1)被控訴人の立論は、要旨、
 
本件に於いて被控訴人日本国が訴求されている遺族への通知義務・戦死者情報の靖国神社への通知の撤回義務等は、1965年に日韓両国間で締結された「日韓請求権協定」2条3項にいわゆる「請求権」に含まれるものであるから、被控訴人日本国にはこれに応ずる法的義務は存しない。

というものである。
(2)しかしながらこれは、同協定2条3項の解釈を誤った、全く失当の論である。
    以下に、

  @ 本件問題・請求権の、日韓請求権協定との本質的無関係性
A これら規定の存在するに至った歴史的経過・その事情に関する事実
  B この経過の特質。ここに現れた、日韓協定の本質・性格
  C これらの、韓国国民に対する規範力の存否についての法的評価
D 日韓請求権協定2条3項の意義と、本件請求権行使への無関係性

 等の内容に於いて論述する。
(3)なお、ここで念のために、次のことを確認しておきたい。
 それは、ここで問題である「請求権」という用語の多義性ということである。
 ア すなわち、日韓請求権協定2条3項で言われている「請求権」とは、国際法学上のいわゆる「クレーム」のことであって、法的に確定されている状態にはまだない要求一般を指称するものとして使用されている。
    法的に確定されているものについては「権利」として、協定2条2項で処理が規定されている。
 イ 他方、日韓会談に於いて使用されている「請求権」は、むしろ「法的に確定されている権利」(例えば、強制動員された韓国人に対する未払賃金等)の意味で使用されており、その補償が問題とされているのである。
 ウ 同一事項が課題とされた日韓会談・日韓条約に於いて、同一の術語が、このように二義的に使用されているため、些か紛らわしくはあるが、本件問題を考える上で、両者を区別することは非常に重要であるので、念のために付言しておく。

 2 被控訴人の反論の誤謬性
  被控訴人の論は、日韓協定の締結の経過・当時双方に確認されたいた締結の趣旨・発表されていた被告日本政府の見解等々、あらゆる面からして、同協定の同条項の趣旨を歪曲したものであって、到底とるをえないものである。
これらについて、順次述べる。
 (1)権利の性格からする誤謬性
  ア 日韓請求権協定締結の経過と、そこに明らかな協定の趣旨
    日韓請求権協定締結の前提となった日韓会談の経過については、すでに原審に於いて詳論したところである。
    そこに於いては、以下のことが明らかであった。
(ア)被控訴人がその主張の根底に於いて立脚している「日本側の立場」なるものは、36年間に亘った植民地支配について、「日本は悪いことばかりしたのではない」「韓国が近代化出来たのは、日本の植民地となった御蔭」等々、しばしば被控訴人日本国要人から公言されてきたところの、いわゆる<妄言>、すなわち韓国併合・朝鮮民族支配の肯定を前提とするものであった。
      それは、植民地支配による被害者の立場・心情を全く無視した立場であり、日本国憲法の根本規範(平和主義・国際主義・諸国民との友好親善主義等)からしても、到底容認されてはならないものであった。
(イ)日韓会談に於いて、日本政府代表がこのような「妄言」を公言したこともあった。そのたびに会談は紛糾し、中断した。また、会談の内容も上記の「日本側立場」の事実上の承認を強く求めるものであった。会談が難航したのは当然であり、その原因は、日本政府が、アジア侵略・戦争遂行問題について、全く反省・自覚を欠いていたことにこそ起因している。
     例えば、日韓条約締結直前である1965年1月7日の時点ですら、日本側主席代表に就任した高杉晋一は、記者会見に於いて、
    
    「朝鮮に対するかっての統治に対して日本が謝れと言う話もあるが、 日本としては言えたものではない。日本は明らかに朝鮮を支配した。しかし、日本は良いことをしようとして、朝鮮をよりいいものにし ようとしてやったことである。・・・・
日本の努力は結局戦争で挫折してしまったけれども、もう20年くらい朝鮮を持っていたら良かった。」

などとあからさまに発言したほどであった(所謂「高杉妄言」)。
  (ウ)日韓会談に於いて日本国政府は、「資料がない。」を連発し、「請求権を言うなら、その根拠資料を出せ。」などと韓国側に迫った。しかしことの性質上、統治関係資料は宗主国であった日本側にこそあるはずであり、日本国政府は、当時、経済再建のための本源的蓄積資本の導入を渇望していた韓国側の足もとを見すかして難題を突きつけ、植民地支配責任を曖昧にし、謝罪も何も無い経済協力方式を押しつけたのであった。
例えば1962年開始された第6次日韓会談の予備折衝第1次会に於い杉道助日本側主席代表8月21日、次のように発言した。

「請求権として定める以上、法律関係と事実関係が十分立証される必要があり、その立証責任は請求する側にあり、・・・・・、請求権として認定できるものは、戦後の混乱や朝鮮の動乱などで関係書類が失われたというなどの事情・・・・・・・請求権の解決ということは、どのようにせよ、数千万ドルしか支払えない。しかし請求権を離れて<韓国の独立を祝い、韓国の民生安定と経済発展に寄与するために無償ないし有償の経済援助をする形式で>ならば、相当な金額を供与する・・・・ 。万一韓国側が請求権を・・・「放棄」するか、または請求権の主張を行わない・・・ならば、請求権という枠のうちで出せる以上の金額を出せることになるのです。」

このような日本政府の手前勝手な主張に対して、韓国側は最後まで抵抗していたが、当時ベトナム戦争の激化情勢に於いて、東北アジアの反共ブロックの強化安定を急務としていたアメリカの、「経済援助停止」をもちらつかせた圧力によって、最終的には、無償3億ドル・有償2億ドル(いずれも資材・役務による現物供与)・民間借款3億ドルという経済協力形式をのまざるをえなかった(いわゆる「金・大平メモ」による最終合意)。
  (エ)しかし、資料が存在しなかったのでは、何らない。
      例えば、動員された被徴用者・被徴兵者に対する膨大な金額の未払賃金に関する供託資料など(本件訴訟に於いても控訴人の請求の根拠となっている)は、完全に存在していた(供託金額は、当時でも金額にして金5000億円にも達しているとされていた。近時、日本銀行で確認されたところでは、2億余円・・・当時の金額による額面・・にも上っている)。しかしながら、日本政府はこれらを秘匿していた。
(オ)本来、問題の処理として、まず提出しうる限りの資料が提出されるべきであった。そしてこれらを基礎として積上げをなし、更にどうしても資料が調わない場合には(しかし、そもそも資料は、上記の例にも明らかなように、全て日本側に存在しているはずのものであった。「無い」というのは、卑劣な隠蔽によるか乃至は、敗戦時の焼却等による隠滅の結果でしかないのであった)、一定の概算による合意解決を追求するということであるべきであった。
(カ)しかるに日本側は、自身による上記隠蔽にもかかわらず、逆に「資料を出せ。」と居直ったうえで、「積上げ方式では、(資料がないから)安くなってしまうが、それでもいいのか。」などとの理不尽な恫喝をなし、低い金額でのつかみ金による解決を押しつけ続けたのであった。
(キ)ところでこの金額については、被控訴人からは時に「3億ドルの無償供与および2億ドルの長期低利の貸付」などと主張されることもあるが、これは虚偽である。
正しくは、上記のとおり無償3億ドル・有償2億ドルの、資材ならびに役務の供与であり、その他に、民間借款として3億ドルが貸付けられたのである。無償・有償併せて5億ドルの現金が韓国側に供与されたというわけでは全くない。
この5億ドルの供与、すなわち「資材・役務の供与」は、要するに、日本企業(製造業・建設業等)が進出し、インフラ整備等事業を請負うというものであって、むしろ日本企業にとって、短期・中長期に亘る大規模な需要創出であり、その経済的効果は莫大であったものである(日韓条約締結前後にも、「決して我が国に損にはならないんだ。」などとの露骨な発言が、外務省高官によって行われている)。
     ちなみに、戦後、被控訴人日本国はインドネシア・フィリピン等東南アジア各国に対して、第二次大戦時の加害について「賠償」を行ってきたが、その実体は、全てこのような「資材・役務の供与」であって、その都度、日本の企業は多大の注文を請負い、その時はもちろんその後も、資材・製品の提供やメンテナンス等々の形で、大きく利得してきたという経過が存している。
     そしてその多くは、例えば賠償問題に絡む汚職事件の続発にも露呈しているとおり、政治家の利権として存在してきたというのが実態である。
被控訴人が時としてなす口吻によれば、恰かも日本が「賠償金を支払った」かのような印象が与えられかねないが、実態はそのようなものではない。世上にいわゆる「転んでも只では起きない」式の、利潤獲得の貴重な機会・重要な手段として、アジア各国への「賠償」問題は存在し、機能してきたのである。日韓会談に於ける被控訴人日本国政府の提案の基調も、このようなものであった。
 結局は実質上、高度成長達成後の日本の経済圏の拡大であり、またいわゆるベトナム特需と並び、ないしはその終焉後の、日本経済の不可欠重要な活性原因となっていった。
  これについて、当時の外務省条約局長中川融が以下のように述べた事実がある。

「大声じゃ言えないけれど、私は日本の金ではなくて、日本の品物・機械・日本人のサービス・役務で支払うということであれば、これは将来、日本の経済発展にむしろプラスになると考えていました。それによって相手国に工場が出来るとか日本の機械が行くことになれば、修繕のために日本から部品が輸出される。工場を拡張するときには、同じ種類の機械が更に日本から輸出される。従って、経済協力という形は決して日本の損にならない。」

    上記したところの、日本政府・財界の日韓協定についての意図が、実に明快にあけすけに(しかし「大きい声では言えないが・・・」とされつつ)語られているのである。 
(ク)日本側のこのような、「賠償ではなく、低金額の経済協力」という方式および金額の押しつけに対しては、当然ながら韓国側の反感と抵抗が
非常に強かった。日韓会談の難航の一切はここに存していた。
 しかし1965年当時、アメリカのベトナム介入は泥沼化しており、戦争は激化の一途を辿っていた。このような状況に於いて、アメリカが頼みとしている、東北アジアの有力な二大反共国家が反目しているという状態はアメリカにとっては、戦争遂行態勢にもかかわるものであった(当時は、アメリカは中国を仮想敵国として敵視し、対峙していた)。そこで、アメリカは、前記のとおり、韓国側に強い圧力をかけ、「経済援助の中止も辞さない」との恫喝をもって日韓条約締結に踏み切らせたのであった(このアメリカの圧力に屈した朴正熙軍事独裁政権は、「白虎」「猛虎」の2箇師団をベトナムに派遣し、戦闘行為に加わると共に、日韓条約締結を強行し、開発独裁政策の推進を開始した。)。
 日韓条約の内容が上記のようなものであったため、韓国国内は、「国辱外交反対!」「売国条約反対!」の広範な声に、全国的争乱状態となったが、朴軍事政権は戒厳令を続発し、暴力的に国民の反対の声を圧伏し、条約締結を強行したのであった。なお、この際朴正煕政府は条約の内実を偽り、「賠償である」と韓国国民に対して強弁した。
(ケ)アメリカの介入問題自体は、本件請求に直接には関係しないことである。しかし、日韓請求権協定の基本的性格、すなわちそれが徹底して「経済条約」であるということ、したがって「靖国合祀問題」には無関係のものであることを明らかにする上で意味のあることであるので、若干の付論をなしておくこととする。
     アメリカが日韓協定締結に向け、内容面も含めて積極的に関与した経過には、例えば以下の如きがある。
a 1961年6月、日米安保条約改定の翌年、訪米した池田勇人総理大臣に対して、ケネディ大統領は、「東アジアの安定のために、日韓交渉を早期に妥結し、韓国の経済再建に協力する」ことを求めた。
b その5ヶ月後、軍事クーデターを成功させたばかりの朴正熙最高会議議長に対しても、その訪米時に、ケネディは「日韓国交正常化」を強く促した。 
    c 1962年7月、アメリカ国務省は、東京・ソウル両大使館に電報に    よる訓令を行った。曰く、

「日本政府には、交渉を促すため、韓国の市場をヨーロッパが狙っていると伝えるように。
 韓国政府には、『請求権の名目にこだわらず日本の経済援助を受け容れるよう』に伝え、『もし応じなければアメリカの経済援助を考え直す』と圧力を加えるように。」(なお、ここに「韓国の市場 云々」と記載されていることは前述したところの、日韓協定が日本の経済に対して有していた意義の一端が、はしなくも示されており、興味深い。)

     当時の米国務省東アジア課のドナルド・マクドナルドは、これについて次のように語っている。

「アメリカは韓国に年間2億ドルもの経済援助を行っていました。アメリカは他の国々にも援助をする責任があったので、韓国に多額の援助を続ければ議会が反対したでしょう。
 韓国に対して、これ以上の経済援助は出来ないと伝え、もし他国の経済援助を求めなければ、アメリカは経済援助しないと伝えました。つまり、日韓正常化に真剣に取り組まなければ、アメリカは経済援助を打ち切るぞと言って韓国を脅したのです。」(60年代当時、韓国朴軍事政権が米国に経済的軍事的大きく依存しており、これに基づきその反共政策上も、アメリカとの同盟関係を最優先していたことは、ベトナム戦地に精鋭部隊として知られた白虎師団他の2個師団を直接派遣,戦闘に投入し、アメリカ軍に協力した、という一事を以てしてもよく解る。・・・ちなみに、周知のとおり、この時従軍させられた韓国人民には現在、枯葉作戦による毒薬中毒の後遺症が多発して社会問題化している。)

  イ 以上のとおり、日韓協定は、大きくは日本の植民地支配・戦争政策責任を曖昧にし免責しつつ日韓関係を修復せしめると共に、日本の経済協力により、重要な反共国家韓国の経済を再建し、軍事独裁政権を安定強化させるというアメリカのアジア戦略の枠と促進の下に、締結が強行されていった。その結果、日本政府は国会に於いて、国会包囲デモから警察力によって守られつつ、先の椎名外務大臣の答弁に見られるような、虚偽答弁を公然と行って、与党のみの単独採決を強行し条約を批准した。
 一方、韓国にあっては、このような解決の政治性を察知した民衆による激烈な反対闘争が展開され、通常の政治秩序下では到底国会通過は達成されえなかったために、朴軍事政権は非常戒厳令を布告して、国民の言論を武力を以て圧伏しつつ、「請求権への支払として受け取った。」などと虚偽を強弁することによって、外面を糊塗し、同じく与党のみの単独採決を以て、ようやく批准を強行したのであった。
 
  ウ 日韓協定の締結に至る経過は、叙上のとおりである。
    それゆえそこでは、日韓会談・国交回復・協定において実現さるべきであった憲法上の理念は、完全に没却されることになった。
    すなわち、日本帝国の強行した植民地主義・戦争遂行政策によって現実に被害を被った朝鮮半島の人々、とりわけ犠牲者が、人間としての尊厳性に相応しい礼を以て遇され、然るべく謝罪を受け、またその被害が事後的にせよ可及的に回復されるべきである、という当然の事理は何ら実現されないことになってしまったのである。
    結果、悲惨な従軍犠牲者に関しても、確実な資料を日本政府自身が持っておりながら、遺族の元には賃金他莫大な未払金が支払われないままに放置され顧みられず、そもそも死亡そのものについて、遺族への連絡さえもがなされていないままであるのである。
 戦後、日本政府が戦争で犠牲になった日本人に対して、どこまで誠意を以て対応してきたか・・・これについては種々批判もあるところではある。しかし、本件の如き不誠意・人間性否認の例はないことは確実であろう。しかるに本件原告(及び他の多くの韓国人)のみに対しては、このような非人道的な対応がまかり通っているという、現在の日本の現実は全く不可解であり、日本人として恥ずかしく申し訳ないものと言うほかない。

エ 以上が、日韓条約締結に至る経過、および状況の一端である。
    ここに何が明らかであるであろうか。それは、日韓請求権協定というものは徹底して、経済的権利に関するものであり、その解決を目的として締結されたものであるということである。
    それは、日韓会談・日韓条約に於ける以上のような経過での、被控訴訴人日本国の主張に於いても、内容上歴然としているとおり、このとき解決されるものとして双方に想定されていたのは、「大韓民国国民が持っている1945年8月15日以前までの日本国・日本人に対する民間請求権」であった。例えばそれは、被控訴人日本国自身が協定に付随した議定書から引用しているような、「日本国債、日本の金融機関に対する預金、日本政府機関に寄託した寄託金郵便貯金等」の経済的権利であり、また死亡した被徴兵・被徴用者についての補償であった(補償それ自体は、直接的には経済的問題である。)。
    なお、そもそも日韓会談・日韓条約は、1951年のサンフランシスコ平和条約第4条(a)に規定されたところの、「日本国とこれらの当局との特別取極の主題とする」に基づいて開催され、締結されたものである。
そこで問題になったのは、アジア・太平洋戦争に於ける敗戦国と戦勝国間の戦後処理のための国際会議・条約に於いて、敗戦国日本が敗戦までに支配していた地域に於いて有していた正負の権益についての処理であった。そして、同会議・条約に於いては、戦勝国とは認められなかった韓国について、同旨の処理をなすべき解決方法として日韓二国間での個別処理が規定されたのであった。
 日韓会談・日韓条約は,この規定の実践として行われたのであるから、敗戦時までに日本の有していた正負の経済的権利・権益についての戦後処理という基本性格を有しているものである。
    これは、例えば、第2条第2項(a)号が、戦後に日本で居住した韓国人が取得した権利については対象外にしているということによっても、裏付けられている。

オ そもそも、本件で問題になっている靖国神社合祀問題は、人間の霊魂・その鎮魂慰霊という、本来、最も厳粛な領域・心的作用に関するものである。このことは、被控訴人日本国及び靖国神社も否定しないであろう。むしろそれを、日頃強調しているものである。
 このような根源的人間性に由来する厳粛な問題に基づく権利については、経済的権利の如くに消滅ということはありえず、考えられない問題である。例えば、南海の島々に白骨化したまま遺棄されている旧日本軍兵士の遺骨・遺品の収集についての遺族の心情・意欲、またこれを行い、ないしは被控訴人日本国に対してその活動を行う事を要求する権利は、何十年が経過しようとも消滅するということはありえない、また、あってはならないことである。
 被控訴人日本国は、二言目には「時効・除斥期間経過」と言うことを愛好しているが、しかし、では、例えば日本遺族会に対して、ないしはその構成遺族に対して「もう時効です。20年経ちました。除斥期間が経過しています。遺骨収集を求める権利はありません。」などと言うであろうか。被告日本国も絶対に言わないであろう。それは、経済至上主義の被告日本国でさえ、これが,人間存在の根抵に関わる権利の問題であることを認識しているがゆえである。

カ 前述したとおり、日韓条約は、もとよりこのような崇高な権利の取扱いについて締結されたものではない。それはあくまで、日韓会談に於いて韓国側から提起され、要求された、日帝支配による損害の賠償(いわゆる「請求権」問題)についての処理が定められたものである。
 そうであるがゆえに、日本からの無償3億ドル・有償2億ドルの資材・役務の供与・民間借款3億ドルという、純然たる経済的処理(韓国軍事政権はこれを「賠償」と国内宣伝し、日本側は「経済協力」と国会で説明した。)で以て、決着が付けられたのであった。
 被控訴人日本国や靖国神社は、靖国神社への合祀は、日本人が最も大切にしなければならない霊魂(英霊)の問題であると強調している。だとするならば、それは8億ドルの経済的利益とバーターされうるような問題ではありえないであろう。
 本件の如き、遺族からの人間としての叫びに対してさえ、上記の如きでしかない日韓請求権協定を持出すという、被控訴人日本国の鈍磨した感覚というものは信じがたいほどのものである。そのような傲岸さは、本件問題に露呈した、植民地支配・戦争動員問題の責任についての無感覚・不誠実に由来している以外の何ものでもない。

キ 小括
    以上よりして、1959年に隠密裏になされた靖国神社への本件合祀により、原告らに発生した権利は、権利の性格上もちろん「1945年8月15日以前までの日本国に対する民間請求権」には含まれていない。
したがって、日韓請求権協定2条3項を援用して、本請求を否定せんとする被控訴人の論は失当である。

(2)権利発生の時期よりする誤謬性
ア 以上に見た如くに、日韓条約・日韓請求権協定は、1945年8月15日に降伏した敗戦国日本が、その時点で有していた正負の権利権益をいかに処理するのかというサンフランシスコ条約の枠組に於いて、旧植民地国であった韓国との間の財産関係を処理しようとしたものである。
    従ってそれは、上記のとおり、財産関係に関するものであるという点で経済問題では全くないところの本件靖国神社合祀は無関係であるのであるが、更に、時期的な点からしても無関係である。
  イ すなわち、靖国神社への本件合祀・そのための被控訴人日本国からの神社に対する通知は、1945年の日本帝国の敗戦と韓国の独立後、10年以上も経過してからなされた。
    この面からしても、日韓請求権協定は全く関係がないのである。

(3)日韓請求権協定2条3項の規範性の限界
ア また、次の理由からも、日韓請求権協定2条3項に言う「請求権」に、靖国神社合祀絶止関係請求は含まれていない。
イ すなわち、前後7次・14年間にも亘って行われた日韓会談に於いても靖国神社合祀問題は、一度として協議されたこともなく、日韓条約の全く埒外の問題であったことが明らかである。
    被控訴人日本国と靖国神社は、不当にも全く韓国国民・遺族を当事者からは除外して、完全な隠密裡にことを進めたのであったから、日韓会談に於いて自ら提起もせず、また、韓国政府も全く知らされてはいなかった。知っていたのは、日本政府・靖国神社のみであった。
ウ そもそも、一定の外交協議を経て国際協定が締結される場合、その協議に於いて意見交換され合意が成立するに至ったからこそ、協定が締結されるのである。また、双方に遵守義務が発生するのである。協議もないにもかかわらず協定が締結されるが如きは、法理上も現実にもありえないことである。ましてや、当事者に対する規範力など問題にはなりえない。
エ したがって、日韓会談時に協議されてはおらず、それどころか、韓国政府には全く情報が無く(本来は、被控訴人日本国側が遺族と共に、韓国政府にも説明し了解を求めるべき性質の問題である。)、全く予想外の事柄であった靖国神社合祀について、韓国側が当時認識しており、その処理について合意・了解したなどということはありえないことであった。よって,そのような立場に置かされた韓国政府の締結した日韓請求権協定によって、靖国神社合祀問題を処理するなどという認識は当然ながら皆無であったのである。
    それゆえ、本請求権協定を使って、合祀問題については解決済みなどとなすことは、到底出来ないのである。
オ したがって、靖国神社への合祀の廃絶を求める請求は、ここで被控訴人の言っているところの「請求権」には含まれるものではない。

(4)「主張することが出来ない」の意味(外交保護権の放棄)
ア ところで,韓国の国民である控訴人らの本件請求については、一層、この協定は無関係である。
   なぜなら、条約を締結した主体である日韓両国が「主張することが出来ない」としたことの意味は、両政府が相互に自国国民に対するいわゆる「外交保護権」を放棄したものであるに過ぎないからである。したがって、両国国民が個人として、相手国ないし相手国国民に対して自己の請求権を行使することを妨げるものでも何でもない。
イ 被控訴人は(例えば、外務省柳井俊二条約局長)、このことを国会の場でも何回も明言し、確認してきたところである。
例えば、1991年8月27日開催の参議院予算委員会に於いて、政府委員として以下のように答弁し説明した。

      「・・・・いわゆる日韓請求権協定におきまして、日韓両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。
 その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。」

なお,同委員会では、谷野作太郎政府委員も同旨を明言している。
これは、国際法学に於ける条約の効力に関する確立した考え方である。
 また、韓国国民が、自己の有する個人的請求権が日本に於いて消滅することについての権限を日本の国会議員に対して与えることは、論理上も出来ないから、この解釈は当然のことと言わねばならない。
ウ しかるに、この期に及んで、日本政府としての国会での公的見解表明をも、平然と反故にしようとの被控訴人の不誠実な態度は、日韓両国民を愚弄するものであって、認められない。
なお更に付言するならば、被控訴人日本国はかつて、一連のいわゆる戦後補償問題に関する訴訟に於いて、例えば徴用労働者に対する未払給与が一方的に供託され時効等とされ支払が不当に拒絶された件(東京地裁平成12年<行ウ>第112号事件など)について、自ら「外交保護件が放棄されたもの」との主張を行っていた。
    すなわち、その「準備書面(1)」(8〜9頁)に於いて、次のとおりの主張を行っていた。

@ 日韓協定2条3項の「いかなる主張もすることができない」
については、日韓両国が相互に国際法上有する外交保護権を行使しない意味であると解されている。
A  一方の締約国及びその国民の実体的権利であって、この協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものについては、他方の締約国はその処分を自由に決定することが出来、これらの実体的権利に対して取られる措置については、一方の締約国は他方の締約国に対して、いかなる主張もできないこと。 
B  一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権(クレイム)であって、この協定の署名の日以前に生じた事由に基づくものについては、一方の締約国は他方の締約国に対して、いかなる主張をすることができないことを、意味するものである。」(原告代理人において、適宜に句点を補充)

上記のうち、特に本件に関連するのは、@Bであるが、@では「日韓両国が相互に外交保護権を行使しない(という)意味である」と明言されており、Bでは、一方の締約国は他方の締約国に対して、いかなる主張を・・」と明記してあり、「いかなる主張もできない」その主語は、日韓両国であって、日韓両国の国民とはされていない。すなわち、これが「外交保護権の放棄」の実質的意味であるのである。

エ このように、被控訴人日本国自身が、訴訟上も、

       「日韓協定2条3項の意味しているのは、両国政府の外交保護権の放棄である(したがって、実体上権利を失効させるというものではなく、国民個人が請求する権利にまで消長を来たすものではない。)」

  との、柳井答弁等でも表明されていた見解と同一の見解を公的に主張していたのである。
   にもかかわらず、訴訟上も自身が主張していたことについて、これを反故にし、全くこれに反する主張をなすなどという行為は、無責任・不誠実の極みであり、被控訴人日本国が自己の有利のためには、その時々で何でも言うという、いかに不信義な存在であるのかを示して余りある。
   被控訴人日本国のかかる態度は、禁反言の原則からしても許されない。  
 以 上